精霊使いと仲良く暮らすには……?


「卒業おめでとう!乾杯!」
 乾杯の声の後、五つのビールジョッキがカチンと合わさる。三月の終わりには、よく見かける光景である。
 このテーブルに座っていた女性達も例外ではない。今年大学の卒業が決まり、先程卒業式を終えた彼女達、そのまま近くの居酒屋へとなだれ込んだのである。
 ちなみに、乾杯したからと言って、始まったばかりという訳ではない。すでに七回目の乾杯を終え、全員顔を真赤にさせていた。
「いやー。大学生活もこれで終わりか」
「長いようで本当に………………」
 ここでしばしの沈黙。「長かった!」
 見事なおやじギャグを放つ。まあ、酔っ払いのたわ言と思って、見逃してほしい……
「そう、長かったわ。出席日数の計算に明け暮れ、カンペーをちまちま作っていた日々……地獄のようだった」
「それも、これも、みんな今日でおしまい!いやー、めでたいめでたい」
 と言いながら、全員ジョッキを持ち上げ、
「てなわけで、卒業おめでとう!乾杯!」
 ジョッキをカチンと合わせて、全員一気。八回目の乾杯が終わった。
「大学生活もこれで終わりね」
「長いようで本当に………………」
 ここでしばしの沈黙。
「絵美、そういえばどうなったの」
 突然、声をかけられ拍子抜けする彼女。
「どうなったのって……何が?」
 絵美と呼ばれた彼女は、ヘラヘラ顔で聞き返す。「私には、どうにかしなくちゃならない男なんか、いなかったよ」
「いや、男の話じゃなくって……」
「そういや、あんたこそどうなったの。テニス部のおぼっちゃま」
「そういう話じゃなくって!」
「そうよね。相手は年下だもんね。大学に残したままじゃ心配よね」
 絵美はうんうんうなずく。「でも心配すること無いって。あの手の顔に惚れる奴は、あんたくらいなんだから。安心しなさい、私が保障する」
「あんたに保障されたかないわよ!」
 彼女はバン!とテーブルを叩く。一瞬、店内が静まりかえった。彼女は赤い顔をさらに真赤にさせる。「とにかく!今はそんな話をしてるんじゃなくて……」
「なんなのよ?」
「あんた、就職どうなったの?」
「就職……」
 絵美はトロンとした顔でつぶやく。
「そう、就職よ。あんた、つい最近まで就職先が無いって言ってたじゃない」
「えっ!絵美、就職決まってなかったの?」
 仲間の一人が加わってくる。
「そうなのよ。この娘が内定していた会社、親会社のリストラとかで、年明けに大幅な人員整理があったらしくてね」
「不況だもんね」
「人を減らしてる会社が、新入社員を欲しがる訳もない。結局、内定取り消しで、一月から会社訪問を再開してるのよ」
「なるほど……でも、今頃雇ってくれる会社なんて無いんじゃないの?」
「その通り。ねえ、就職決まったの?なんなら私の就職先に来ない?頼めば一人ぐらい何とかできるんだけど……」
「そうしなよ。今更、好き嫌い言ってる場合じゃないよ」
 二人が絵美に心配の目を向ける。しかし、
「誰の就職が決まってないって?」
 絵美は座った目で二人を見返した。「誰の就職が決まってないって訊いてんのよ」
「あんたのに決まってるでしょう」
「私の?フッ、誰がそんなデマを」
「自分で言ったんでしょうが!」
「……そうだっけ?」
「ねえ、もしかして……就職決まったんじゃないの?」
「えっ?絵美、それ本当!」
「当ったり前よ。私を欲しがる所なんて星の数ほどあるわ」
「ねえ、どこに決まったのよ!」
「フッフフフフ………………知りたい?」
「知りたい!」
「すっごく?」
「うん、すっごく!」
「本当に?」
「本当に!」
「よし!特別大サービスで教えてあげましょう。感謝しなよ!」
「するする!」
「私の四月からの肩書きは……」
「肩書きは?」
「教師」
「えっ?」
「教師よ!学校の先生!しかも……」
「しかも?」
「全寮制ときたもんだ!いやーまいったな」
「うっそー!信じらんない!」
「私も!でも、じ・じ・つ」
 二人して大笑いする。しかし、一人だけ拍子抜けた顔をしている者がいた。
「絵美、あんた教員免許持ってたっけ?」
 その彼女が、ぼそりと訊いてきた。
「ううん、持ってないよ」
 絵美はさらりと答える。
「持ってないよって……なんでそれで教師になれるのよ」
「教員免許はいらないんだって」
「そんな馬鹿な!教員免許のいらない学校なんて聞いたことがない」
「そんなこと言われても……」
「まさか、学校という名のいかがわしい場所なんじゃないでしょうね」
「失礼ね。ちゃんとした学校だよ。信頼おける人からの推薦で行くんだから」
「推薦?」
「そう、中学ン時の先生の推薦。なんでも今は、専門学校の校長先生をしてるらしいんだけどね。その学校で一般教養を教えていた人が急にやめちゃったから、代行教師を探してるんだって」
「それで絵美が?」
「そうよ」
「でも、専門学校の一般教養って、難しいんじゃないの?」
「よく分かんないけど、大学卒業してれば大丈夫だからって……」
「ふーん。専門学校か……」
「という訳で、私もやっと職が決まったのです。いやーめでたいめでたい」
 と言いうと、絵美はジョッキを持ち上げ、みんなに合図する。
「卒業おめでとう!乾杯!」
 九回目の乾杯が終わったのである。

「……何これ?」
 絵美は門の表札を見て、思わずつぶやく。
 四月の始めである。絵美は、推薦状に同封されていた地図をもとに、この町を歩いていた。もちろん、就職先である学校に行くためである。
 はたして、地図が示してあった場所を絵美は見つけることができた。しかし……
「何これ?」
 絵美はもう一度つぶやく。それもその筈、校門に掛かっていた表札には、信じられないことが書いてあったのだから。
「何よ、この『精霊魔法学院』てのは」
 絵美はもう一度地図を見比べてみる。しかし何度見ても、この場所に間違いはない。
(確かに、推薦状では専門学校とは書いてあったけど……まさか、本当に魔法を教えてる訳じゃないでしょうね?)
 絵美は一抹の不安を抱えながら、その学院への第一歩を踏み出した。そして、その不安が現実の物となる。
「そこの人!危ない!」
「へっ?」
 絵美は、声のする方に顔を向ける。次の瞬間、絵美の顔はこわばった。
「ひ!ひのた……」
 絵美が言い終わらないうちに、火の玉が彼女の顔に直撃する。
「いったたたた……」
「大丈夫か」
 絵美が顔を押さえていると、一人の男の子が走り寄ってきた。
「大丈夫じゃない!女は顔が命なのよ!」
 絵美は男の子に怒鳴る。「しかも、赴任初日の大事な時に……あら、なんか焦げ臭い」
「頭……燃えてるぞ」
「えっ……あっちー!」
 頭が燃えていれば、熱いのも当然である。どうやら、先程の火の玉が、彼女の髪に引火したらしい。
「み、みずー!」
「水か?ちょっと待ってろ!」
 男の子が慌てて、指を忙しく動かす。そして、「ウォーター・ボール」
 叫んだ瞬間、男の子の手の中に大きな水の玉が発生する。彼はそれを思いっきり絵美にぶつけた。
「うっひゃー、つめたい!」
 またもや、絵美は絶叫する。しかし、その甲斐あってか、どうやら鎮火したようだ。
 火が消えて、辺りに静けさが漂う。そこには、ほっと胸を撫で下ろしている男の子と、派手なパーマの掛かった、びしょ濡れの絵美しかいなかった。
「ねえ……」
「なんだ?」
「これはいったい、どういうことなの?」
「どういうこと?」
「私に何が起こったの?」
「ファイヤー・ボールが直撃しただけだ。誰かが魔法に失敗したんだろう。まあ、事故に巻き込まれたと思えば……」
「事故……」
 絵美は、今の自分の姿を見る。「私は事故に巻き込まれて、服を黒焦げにされ、まだ風の冷たい中、びしょ濡れ姿になってしまったと……」
「水を欲しがったのは、あんただろう」
「欲しがらせる様なことをしたのは、あんたでしょ!」
「俺じゃないよ。俺は、たまたま近くにいただけだ」
「じゃあ、誰よ」
「そんなの知るか。この学校じゃよくあることだからな」
「よくあること?」
「ああ、勘違いするなよ。別に物騒な訳じゃないんだ。ただ、実験の失敗が日常茶飯時であって……」
「……帰る」
 絵美は憮然としたまま校門に顔を向ける。しかし、男の子がそれを慌てて止めた。
「待てよ!そんな格好で外を歩くつもりか?みっともない」
「あのね……誰がこんな格好にさせたと思ってんの」
「だから俺はやってないって。とにかく中に入れよ。そんな格好でここから出られたら、この学院の風紀が疑われちまう!」
「……なるほど、それが本音か」
「いや、その……とにかく来い!」
 男の子はそう言うと、強引に絵美を、学校の中へと引きずり込んだのであった。

「あらまあ、絵美ちゃん!しばらく見ないうちに派手になったわね」
 初老の女性が部屋に入ってくるなり、驚き顔で言った。ここは、学校の保険室。男の子に強引にここへ連れ込まれた絵美は、憮然とした顔のまま、手当を受けていた。
「先生!……お久しぶりです」
 絵美は煤けた顔を軽く下げる。
「ええ、確かにそうですけど……どうしたのです?その派手なパーマは」
「火の玉をぶつけられまして……」
「火の玉を?」
「良くある事故だと言ってましたけど、そこの男の子は」
 絵美は男の子に目を向けた。
「あら、小田切君じゃない」
「どうも……」
 男の子は頭を下げた。
「まさか、小田切君が……」
「冗談じゃありません。俺がそんなことできないのは、校長も知ってるでしょう」
 男の子はしれっと言うと、
「そうでしたね。あなたがそんなことする訳ありませんものね」
 校長は彼の言葉に何の疑いもなく、納得してしまった。絵美が校長の態度に呆然としていると、校長は更に話を続けた。「あなたは水精霊に属している生徒ですものね」
「そういうことです」
「あの……」
「なんですか?絵美さん」
「その……話が見えてこないんですけど」
「ああ、そうね。絵美さんにはあまり、詳しいお話はしていませんものね」
「はあ……」
「ちょうど良い機会です。今の内に紹介しておきましょう」
「紹介……ですか?」
「まだ二人とも、お互い何者か知らないのでしょう?」
「えっ?まあ、そうですけど……」
 絵美がちらっと、男の子の方を見る。彼も同様な目付きで彼女を見た。
「こちら、今年から一般教養の教師をすることになった、橘絵美先生。こちらが学生寮の寮長、小田切直人君」
「教師?」
「寮長?」
 二人は同時に聞き返すと、慌てて互いの顔を見直した。
「今日、赴任する先生ってのは、あんたのことだったんだ」
「何だと思ったの」
「新入生が下見に来たのかと」
「こんな年食った新入生がいるか!」
「年食ってるのか?」
「失礼な。私はまだ二十二!」
「言ってることが違うぞ」
「少しは考えろ!新入生になるほど私は子供じゃないの」
「ああ、なるほど。しかし、それは一般的な考えだな」
「一般的?」
「この学院の生徒の年齢は幅広いんだ。上は三十歳から下は十二歳までいる」
「十二歳?ちょっと待って!ここって、いったいどういう所なの!」
「どうって言われても……」
「それに、さっき言ってた水の何とかってのは……」
「ああ、あれはだな」
「絵美さん。ここから先は、私が答えてもよろしいかしら?」
 校長が会話に割り込んできた。
「先生……」
「小田切君はもういいですよ。後のことは私がやりますから」
「そうですか」
「そうそう、橘先生のあれ、よろしくお願いしますね」
「そうですね。やっておきます。それじゃ、俺は寮の方に帰りますので、いずれ……」
「いずれ?」
 絵美が言うのが聞こえなかったのか、男の子は、そのまま保険室を出ていった。
「さてと、あなたの質問に答える前に……」
 校長は、絵美の頭に触れる。「まずは、この頭を何とかしなくちゃね」
「何とかできますか?」
「ええ、もちろん。週に一回はこのような頭の子が出てきますから」
 校長はさらりと言うと、男の子が水の玉を出した時みたいに指を忙しく動かし始めた。そして、「ヒーリング」と小さくつぶやく。
「なんか、頭がかゆくなってきたんですが」
「それでいいのよ。今、絵美ちゃんの頭の上はフケだらけなんだから」
「フケ?なんでまた……」
「自分の髪をよく触ってみなさい」
 校長が言うと、絵美は自分の髪を触ってみる。
「髪が……伸びてる」
「そう、後はちりぢりになった部分を切ればおしまい」
「あの……これはどういう」
「あなたの細胞を活性化させて、新陳代謝を異常に高めたのよ」
「細胞を活性化させる?そんなことできるんですか?」
「できるも何も、今やってみせたでしょう」
「確かに……」
「それじゃ、髪を切ってあげるから、しばらくじっとしてなさい」
「はい……あの、この状態で話をしてもいいですか?」
「あなたが良ければかまいませんよ」
 校長はハサミを手に取りながら言う。
「それじゃお言葉に甘えまして……」
「何を聞きたいのかしら?」
「いろいろと、訊きたいことがありすぎまして……何から話せば」
「無理に順序だてないで、一つ一つ思い出して、口にしなさい。そうすればおのずと知りたいことが見えてきますよ」
 校長にそう言われると、絵美は不思議と落ち着いてくる。彼女は大きく深呼吸をしてから、口を開けた。「お恥ずかしい話なんですが…… 今日、この学校に来て初めて知ったんですけど、門の所に『精霊魔法学院』って書いてありますよね」
「ええ、この学院の名前ですもの」
「つまり、魔法を教えているってこと……ですよね」
「そうですね、この学院は精霊魔法の専門学校ですから」
「そういう学校の校長先生に、こんなこと訊くのも何なんですけど……」
「なるほど……あなたの聞きたいことは、だいたい分かりました。要するに、この学校が本当に本物の魔法を教えているのか?ということですね」
「……そういうことです」
「そうよね。確かに、精霊魔法学というものが復活したのは、つい最近のことですから、知らなくても無理ありませんね」
「はあ……」
「結論から言うと、本当。実際、絵美ちゃんも体験しているでしょう?」
「ええ、嫌って程……」
「それでも、信じられない?」
「えっ?あの……」
「私がトリックを使ったと思う?」
「別に、そういう訳では……」
「今はそう思っていても構いませんよ」
 校長は温和な笑みを見せる。「でも、ここで仕事をしてゆく以上、ある程度の答えというものが必要です。ここでやっていることが本物かどうかは、自分の目で確かめ、自分なりの答えを見つけなさい」
「……分かりました」
 絵美は小さくうなずいた。「……ところで精霊魔法学というのは?」
「この学院で教えている学問のことよ。実践したものが、さっきのヒーリングの魔法のようになるんだけど」
「ここの生徒はみんな、そんなことができるんですか?」
「ちょっと答えずらい質問ね。今のあなたの質問だと、はいと答えていいのかしら。この学校にいる生徒はみんな、何かしらの精霊魔法を使うことができますよ」
「どういうことです?」
「例を上げるとすれば……私や小田切君が魔法を使えるのは知っているわよね」
「はい」
「でも、私は小田切君のように水の玉を出すことはできないし、小田切君はヒーリングの魔法を使うことができない」
「水精霊がなんとかとか言ってましたけど……あれが何か関係しているのですか?」
「そうですね。小田切君は水精霊、私は生命精霊に属しています。つまり、その精霊に属した魔法は使えますが、他精霊の魔法、例えば火の玉を出すことは二人ともできないということなのです」
「あっ、だからさっき先生は……」
「なんですか?」
「い、いえ……なんでもないんです」
 絵美は顔を真赤にさせる。
「納得しましたか?」
「ハ、ハイ!まだ頭がこんがらがってますけど、一応は……」
「この学院のことは、この学院にいればおいおい理解して行きますよ。あなたもこの学院の寮に住むことになるのですから」
「この学院は全寮制なんですよね」
「ええ、生徒はもちろん、私や他の先生もここに住んでいますよ」
「一種の閉ざされた場所ですね」
「そういうことです。……これでおしまい」
 校長は絵美の髪を切り終えると、ハサミを置いた。「さてと、それじゃあなたの部屋へ案内するわね」
「そんな、案内してもらわなくても一人で行けますよ」
「甘いわね絵美ちゃん。この学院の大きさは尋常じゃないのよ。本当は小田切君に頼めば良かったんだけど……」
 校長は一呼吸置く。「せっかく、絵美ちゃんと再会できたんですものね」

「大きいですね……」
 絵美は、目の前に立つ建物を見上げる。
「ここが、生徒達が住んでいる学生寮よ」
「えっ?生徒達だけですか」
「ええ、そうよ。私や事務員の人達などは、あちらに建っている建物に住んでいるの」
 校長が指した建物も、これとは負けないくらい大きな建物であった。
「……何となく、この学校の大きさというのが分かったような気がします」
「それじゃ行きましょうか」
 そう言うと、校長先生は目の前の建物に入ろうとする。絵美は校長先生の思ってもない行動に、しばらく呆然としていると、
「絵美ちゃん、何しているの?」
 校長が声をかけてきた。
「あの……先生、そっちは学生寮では?」
「そうですよ」
「私は教師として呼ばれたのですよね」
「その通りです」
「それなら、私はあちらの建物に住むことになるのでは……」
「あら?言ってませんでしたか?」
「えっ?」
「あちらに住むのは、私のような扶養者がいる者だけなのですよ。そうでなきゃ、部屋の広さに不公平が生じるでしょう?」
「ええ、まあ……」
「つまり、あなたのような独り身の人は支障がない限り、生徒との交流の為に学生寮に住んでもらうことになっているのです」
「それじゃ、私の他にも?」
「何人かの先生がここに住んでいますよ」
「そうですか」
「なにか困ることがあります?」
「いえ、別にありません」
「そう、それならここに住んでもらうことになりますけど。よろしいかしら?」
「……はい」
「よろしい」
 校長は一つ咳をすると、「みなさん!橘先生が入居いたしますよ!」
 校舎中に響き渡るような声を発した。絵美は慌てて耳を塞ぐ。しかしその後、更に信じられないようなことが起こった。
 静まり返った学生寮がにわかに騒ぎ出す。そして、入り口に向かって、大音響が迫ってきた。やがて、それの正体が絵美の目に飛び込んで来る。
「なっ!先生、これはいったい」
「みなさん、あなたが入居するのを楽しみにしていたのですよ」
 校長はさらりと言う。しかし、これが歓迎するという雰囲気なのだろうか?
『Welcome! to our school』という垂れ幕はいいとして、その下にいる人の目が血走っている。
 歓迎すると言うより、新たな獲物が来たのを迎えに出たという感じの方が、だいぶ近いようだ。
 絵美は呆然としているうちに、彼らにぐるりと取り囲まれ、身動きがとれなくなってしまった。
「これが、新しい先生か?」
「なんか、ずいぶん貧乏臭そうだな」
「服なんてボロボロじゃない」
「よく、こんな格好で外を歩けるな」
「服もそうだけど顔も随分と貧相ね」
「化粧のけの字もありゃしない」
「こりゃあ、たいした所の出じゃないな」
「中流家庭の見本って所か?」
「いいえ、どう良く見ても中の下って所よ」
「どっちかと言うと、下の上じゃないか?」
「いやいや、下の中辺りが適当かと……」
 絵美を取り囲んだ者達は、口々に好き勝手なことを言う。絵美が、それに対応し切れずにおろおろしていると、
「ねえ、先生!荷物は?」
 と、訊いてくる者がいた。
「えっ?荷物……あっ!」
 絵美が突然大声を出したので、一同静まり返った。「保険室に忘れてきちゃった」
「……ほけんしつ?」
「……ホケンシツ」
「保険シツ……」
「ほけん室」
「保険室!」
 一人の男の目が光った。「先生!俺が荷物を持ってきてやるよ!」
 言うなり、彼は一目散に走り出した。それに釣られるように、他の者も走り出す。
 数秒後、彼女の周りには校長以外の人間は存在していなかった。すぐそばには、先程の垂れ幕が寂しく突き刺さっている。
「あの……今のはいったい……」
 絵美は校長に訊くと、代わってそれに答える者がいた。
「この寮の歓迎儀式ですよ」
「小田切君!」
「ようこそ、精霊魔法学院の学生寮へ。寮長の小田切直人です」
 小田切直人は改めて頭を下げ、すぐさま顔を上げる。
「まっ、よろしくな」
 そう言うと彼は、絵美に軽く笑みを向けたのであった。

「ここが絵美ちゃんの部屋だよ」
 直人は、絵美を彼女の部屋に案内すると、持っていた鍵でドアを開けた。「ほい、これが鍵ね」
 絵美は鍵を受け取ったものの、不満気な顔を見せる。「ねえ……」
「えーと、中は直接部屋になっているから、入り口には立ってない方がいいよ」
「ねえ……」
「全く、何考えてんのか知らないけど、全室内開きなんだ。まいっちまうよ」
「ちょっと……」
「風呂とトイレは、入って右手のドア。台所は、簡単なキッチンのみ」
「ちょっと!」
「まあ、全員食堂で食べるんだから、必要ないってことだな」
「こら!返事せんかい!小田切直人!」
 絵美が声を張り上げると、直人は面倒くさそうに絵美を見た。
「なんだよ、さっきからうるさいな」
「なんで、あんたが案内してんの」
「こういうことは、寮長がやることになってるの。それとも、俺じゃ不満なのか?」
「不満だとかいう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題なんだよ」
「ここは私の部屋でしょ!」
「そうだよ」
「私は女!」
「まあ、そうみたいだな。今の所……」
「今だけじゃなく、ずっと女!」
「結局、何が言いたいんだ?」
「女子寮ってのは、男子禁制ってのが相場が決まってるの!なんで、あんたがここに入ることができんの!」
「ああ、なるほど」
 直人はポンと手を叩く。「ここはそういうの無いぞ」
「へっ?」
 絵美は拍子抜けた顔をする。「無いの?」
「そう、無い」
「だって、普通若い男女が一つ屋根の下で暮らすなんて……」
「昭和初期の頃の考えだな」
「いつ頃の考えだっていい!」
「そんなこと言っても、俺がどうにかできる問題じゃないし、今まで文句言った奴は誰もいなかったし……いいんじゃないの?」
「いい訳ないでしょ!間違いが起こったらどうすんのよ」
「それは自分の心の持ち方しだいだろ」
「それは……そうだけど」
「そうそう、後で騒がれると困るから、今の内に言っとくけど……」
「な、なによ?」
「絵美ちゃんの部屋の隣、男子生徒が住んでるから気をつけろよ」
「へっ?」
「まあ絵美ちゃんなら大丈夫だと思うけど」
「どういう意味」
「そのままの意味だよ」
「なんか引っかかる言い回しね」
「まあ、そう気にするなって」
「あんたが言うな!」
 絵美は直人に突っ込むと、大きくため息をついた。「全く、ここに来てから信じられないことばっかりで、疲れきってんのに……」
「信じられないこと?」
「そうよ。魔法のことといい、さっきの異様な集団といい……ねえ、そういえばさっきのあれ、なんだったの?」
「あれか?この寮の歓迎儀式だよ。言わなかったか?」
「言ったけど……だからって、とてもそうは見えなかったよ。どちらかというと、おいはぎのような雰囲気が……」
「おいはぎか、いい所をついてるな」
「いい所って……」
「あれは、絵美ちゃんを歓迎をしていたんじゃなくって、絵美ちゃんの荷物を歓迎していたんだ」
「私の荷物?」
「正確には、金属類」
「金属類……」
「あいつら、付与魔法学科の人間なんだ」
「附与魔法?何それ?」
「なんにも知らねえんだな。物質に精霊を宿らせる魔法だよ。よく聞くだろう、空飛ぶホウキとか、水があふれ出る杯とか……」
「ああ、なるほど。でもなんで、金属類が必要なの?」
「なんでも魔法剣を作るとかいって、色んな金属をじゃんじゃん加工してるんだ」
「魔法剣?なんでそんなものを?」
「そりゃ……趣味だろう」
「趣味って……あのね」
「あいつらに言わせれば、人の為に役立つ大事な研究だとか言うだろうけど。結局は趣味なんだよ。自分の興味があることをやってるんだから」
「フム、確かに」
「今、あいつらが欲しいのはアルミだったかな。気をつけろよ。あいつらにとって、大事なものは千円札より、目の前の一円玉だ。うっかり小銭をじゃらつかせてたら、身ぐるみはがされちまうぜ」
「分かった……あっ!」
「どうした?」
「私の荷物の中……確かキーホルダーがアルミ製だったような」
「やっぱりあったか」
「どうしよう……結構大事にしてたのに」
「安心しろ。荷物は俺が運んどいた」
「えっ、いつ?」
「保険室で別れた時だ。校長先生が頼んでただろう」
「よく、覚えてないけど……」
「頼んでたの。それに、玄関前での校長先生の呼びかけにも意味があったんだ」
「確かに建物内で、あの人数に襲われたらたまったもんじゃない」
「その通り。しかし、あれぐらいのことが信じられないことだとは……」
「えっ?」
「いや何でもない。今日はゆっくり休みな。夕飯になったら呼びに来るから、それまで鍵かけとけよ。たぶん、今日のターゲットは絵美ちゃん一人に絞られてるからな」
 直人は言うと、絵美の部屋を後にする。やがて、保険室からとんぼがえりしてきたのだろう。附与魔法学科の生徒達の轟音が近づいてきた。
 絵美はその音に少し身震いすると、慌てて部屋に入り、鍵を閉めたのであった。

「朝か……」
 絵美は小さく呟くと、薄目を開けた。彼女がこの寮に来て次の日の朝である。
 うっすら明るくなっている部屋、まだ太陽は上ってない時間らしい。時を知らせるためだろう、遠くから鐘の音が聞こえてくる。
(どうやら、鐘の音で起こされたのか)
 近くにあった時計を見ると、短針が5を指している。
(なんだ……まだ五時?だったら、もう一眠りできる)
 絵美は安堵の顔で目を閉じる。そして、再び夢の世界へ……
「ストーン・ブラスト!」
 突然、声が響いた。続いて、壁に削岩機をかけたような音が響きわたる。
「なっ、何?」
 たまらず、絵美は跳ね起きる。だが、それだけでは終わらない。
「ウインド・カッター!」
 今度は、壁にハンマーを打ち付ける音が響く。更に飛び上がった彼女は、そのままベッドから転げ落ちた。
 しばらく絵美は、呆然とそれを聞いていたが、そのうち状況が把握してくる。
「朝っぱらからなんなの隣の部屋は……」
 完全に目を覚ましてしまった彼女は、寝惚け顔でドアを開ける。
「おっはよ、絵美ちゃん!」
「わっ!」
 絵美は驚き顔で後ずさる。ドアを開けた瞬間、目の前に人の姿があれば、誰だって驚くに決まっている。
「な、直人……君」
「点呼取りに来たぞ。絵美ちゃんマルッと」
「点呼?」
「そう点呼。まあ、いなきゃいないで別にそれでもいいんだけど」
「じゃあ、なんで取ってんの」
「一応、各自の部屋の様子を見るためさ。この寮は変わった奴が多いからな。中で変なことでもされてたら困るだろ?」
「そりゃまあ、そうだけど……」
「それより、なんだその格好。もしかして、まだ寝てたのか?」
 言われて、絵美はハッと気づいた。慌てて外に出たのでパジャマ姿のままなのである。
「ちょ……ちょっと待ってて!」
「待てって……おい!俺は点呼の続きが」
 絵美は、直人を無視してドアを閉める。そして隣の大音響をバックに、イスに掛けてあったカーディガンを急いで羽織ると、再びドアを開けた。
「お待たせ!」
「本当に『お待たせ』だ。俺になんか用があるのか?早く、点呼の続きをしないと……」
「ある!……けど、その前に」
 絵美は咳を一つする。「なんで、こんな朝っぱらから点呼を取ってんの?」
「だから部屋の様子を……」
「そうじゃなくって!今、何時だと思ってんの!」
「何時って……五時だろう?午前の」
「午前五時って言ったら、普通世間では熟睡している時間でしょ!」
「そうなのか?」
「そうなの!」
「しかし、ここに住んでる奴らは、この時間みんな起きてるぞ」
「起きてる?そんなの信じられない」
「別に信じなくてもいいけどさ。だけどここじゃ、今頃まで寝てる方がおかしい」
 直人は、絵美の不満気な顔を、チラッと横目で見る。「ま、この寮の常識って奴だ」
「常識ね……」
「他に用はないか?無ければ、点呼の続きをしたいんだが……」
「……ある」
「今度はなんだ?」
「あれ……」
 絵美は隣の部屋を指す。どうやら更にエスカレートしているようだ。「あれ、どうにかして欲しいんだけど……」
「なんだ、又やってんのか」
「又ね……」
 絵美はため息をつく。「あれって、なにやってんの?」
「なにって言われても……まあ、たいしたことじゃないんだが……」
「とても、そうは思えないんだけど」
「そうか?ここに住んでれば、そのうち慣れてくるぞ」
「……あんまり慣れたくない」
「しょうがないな。俺が止めてきてやるよ。点呼ついでだ」
「止める?」
「ああそうだ、ついでに紹介してやるから、絵美ちゃんもついてきな。絵美ちゃんにとっても、隣の住人は知っとくべきだろう?」
 直人はそう言うとドアを無造作に開けた。
「あれ、鍵は?」
「ついてないの。こいつらにとっても、その方がいいんだ」

「……すごい」
 絵美は感嘆の声を上げる。それ程に、部屋の中は荒れ切っていた。
 部屋の中は、二つのベッド以外、ほとんど何もない。床の上には、お菓子の袋ゴミがそのまま放置されている。部屋を囲っていた筈の白い壁は、大穴だらけですでにその役割を放棄してしまっているようだ。そして中央には子供が二人……
「サンダー・ボルト!」
「ストーン・シールド!」
 二人は同時に魔法を発動させた。
 少女が手の平から稲妻を発生させる。だが間一髪!少年が手の平から作り上げた石の盾で、稲妻を跳ね返した。
「ウッ!まさか翼が、守備魔法を唱えるなんて……」
「フッ、たぶん美奈子はそう来ると思ってたんだ。これで、万策尽きたな」
 少年は勝ち誇った笑いを浮かべると、忙しく指を動かした。「これで、終わりにさせてもらう!大地を揺るがす、土精霊、最大最終究極魔法!アース・クエイ……」
「やめんか馬鹿者。寮を壊す気か?」
 言い終わらないうちに、少年は張り倒された。張り倒したのはもちろん直人である。
「直人さん!」
 少女が声を上げる。
「えっ?直人?」
 少年も頭をさすりながら呟いた。
「お前ら、姉弟喧嘩もいい加減にしろよ。このままじゃ、本当に寮が壊れちまうぞ」
「そんなこと言ったって、美奈子が突っかかってくるんだよ」
「突っかかってきたのは翼の方でしょう!」
「まあ、待て。喧嘩の原因はなんなんだ?話してみろ」
「直人さんに話したって無駄ですよ」
「そうだそうだ。いつだって『くだらない』の一言でかたずけるくせに」
「まあ、いいから話してみろ。今回はちょっと事情が違うからな」
「事情?」
 二人は奇妙な顔で直人を見る。
「隣のお姉さんが、うるさいって文句言ってきたんだよ。なんで、こうなったか話してやりな」
 直人は後ろ手に絵美を指さす。突然、自分に振られた絵美は、慌てて頭を下げた。
「どうも、隣に引っ越してきた橘絵美です」
 見知らぬ人間がいるのに気づいた二人は、しばらく呆然としてたが、
「お前らも自己紹介しろ」
 という、直人の提案に従って。
「竹原翼」
「竹原美奈子です」
 二人は手短に紹介を済ませた。
「それで、喧嘩の原因は?」
「だから美奈子が!」
「翼がでしょ!」
「……らちがあかんな」
 直人は言うと、突然翼の口を塞いだ。
「ウーッ!ウーッ!」
「美奈ちゃん。なぜ、喧嘩を始めたのかな」
「……実は翼が、私のチョコを全部食べちゃったんです」
「チョコ?」
 絵美は拍子抜けした顔をする。「チョコって、チョコレートのこと?」
「そうです。しかも、一枚二百円もする奴」
「確かに、怒って当然のような気がするけど……しかし」
 絵美は苦笑いした。
「今度は翼だ」
 直人はパッと手を離す。
「それは、お前が先にやったからだろ!」
「失礼ね!私がいつ……」
「絵美ちゃん、頼む」
 直人が言うと、絵美は慌てて美奈子の口を塞いだ。
「ムーッ!ムーッ!」
「それで、美奈ちゃんがなにをやったの?」
「こいつが、俺のスナックを食べやがったんだよ。だから仕返ししたんだ」
「ほい、今度は美奈ちゃん」
 言われて、絵美はパッと手を離す。
「ちゃんと『一コちょうだい』って、断ったじゃないの!」
「取ったのは一コじゃないだろ!三コは取ったの知ってんだからな!」
「一コも三コも変わんないでしょ!たかが百円の袋菓子!私のは二百円もするのよ!」
「値段なんか関係ねえ!どっちが先にやったかだ!」
「私のはやったことに入んないわよ!このドケチ男!」
「なんだと!単細胞!」
「単細胞はあんたの方よ!アメーバ男!」
「なんだと!それなら、お前はゾウニムシ女だ!」
「ゾウニムシ?」
「なんだ、ゾウニムシも知らねえのか。やっぱり困るな無知は……」
「ねえ、それってもしかしてゾウリムシじゃないの?」
 絵美は思わず訂正する。
「えっ!そうだっけ?」
「ばっかみたい!ゾウリムシをゾウニムシと間違えるなんて。やっぱり単細胞はあんたのことを言うのよ。このアメーバ男!」
「なんだと!もう、あったま来た!お前なんか魔法でぶっつぶしてやる!」
「フン!やれるもんならやってみなさいよ。今度はさっきのようには行かないわよ!」
「……絵美ちゃん頼む」
「う……うん」
「ストーン・ブラ……」
「ウインド・カッ……」
 同時に幼い姉弟の口が塞がれた。
「とまあ、これが喧嘩の原因の訳だけど。分かったか?」
「うん……まあ」
「で、どうする?俺ものんびりしてられないんだが……」
「対策は後にして。とにかく、しばらく冷却期間を置かないと……また始めそうだし」
「ウーッ」
「ムーッ」
「フム……」
 直人はしばらく思案顔を見せる。「翼、俺と一緒に点呼取りを手伝ってくれないか?」
「ウーッ、ウーッ」
「手伝って、く・れ・る・よ・な?」
「……ウーッ」
 翼は、直人の迫力に負けたのか、小さくうなずいた。
「それで、美奈ちゃんはどうする?」
「ムーッ、ムーッ」
「美奈ちゃん。私に、寮の中を案内してくれないかな?」
「ムーッ?」
「私、昨日引っ越してきたたばかりだから、勝手が分からないんだ」
「ムーッ」
 美奈子は素直にうなずいた。
「決まったな。そんじゃ、俺は先に行くぞ。みんな、待ちくたびれてるからな」
 直人は言うと、翼の口を塞いだまま、部屋から出ていった。
 二人の足音が聞こえなくなってから、絵美は美奈子の口を開放する。
「ごめんね。息苦しかった?」
「いえ、それ程でも……」
「改めて自己紹介するわ。今年から先生になる橘絵美よ」
「先生?なんの先生?」
「一般教養よ。国語とか数学とか……」
「フーン」
「美奈ちゃんは今、何歳なの?」
「十二、今年で十三歳です」
「そうか、直人君が言ってた最年少というのは、あなたのことなんだ」
「違いますよ」
「えっ?」
「最年少は翼です。と言っても、ほんの少しですけど」
「ああ、あなた達双子?」
「そうです。でもあんな奴と、血がつながっているとは、とても思えない。私達似てませんよね?」
「さ、さあ。今日会ったばかりだから。なんとも言えないけど……」
 絵美は言葉を濁す。確かに、今日会ったばかりで、姉弟が似てるかどうかという判断はしづらい。
 だが、血がつながっているのは誰が見ても明白だろう。それ程に二人の顔は瓜二つであった。翼には悪いが、絵美は最初二人を見た時、少女が二人いると思っていたのだ。
「だいたい部屋割りが不公平なんです」
「えっ、なんで?」
「私達だけ、二人で一部屋なんですよ。他の人は、みんな一人で使ってるのに。絵美さんだって一人でしょう?」
「ええ、まあ……でも、あなた達はまだ子供だし、一人というのは何かと物騒じゃ……」
「私は、もう子供じゃないですよ。今時、十二といったら、自立して働いている子だっている年代です」
「そりゃ、まあそうなんだけど……」
「それでも、そのうち一人部屋になるだろうと我慢しているんです」
「うーん。そう言われると、不公平な気がしてきたな。だからと言って、私の力じゃどうにもならないような気がするし……」
「もう、いいです。そのうち、翼を亡き者にするつもりですから」
「えっ!美奈ちゃん、それ本気?」
「冗談ですよ。気にしないで下さい」
 美奈子はしれっと言うが、目は本気と語っている。
(うーむ……マジでヤバイような気がする)
「どうしたんですか?顔が青いですよ」
「な、なんでもないのよ。それより美奈ちゃん。寮の中案内してよ。嫌なことは全部忘れてね」
 絵美は慌てて取り繕うと、いつもより明るい声で、美奈子に語りかけるのであった。

「ここが、食堂です」
「うん……ここは知ってる。昨日来たし」
 絵美は小さくうなずいた。しかし、うなずく顔には精彩さが無くなってきている。
「それで、こっちが……」
「……美奈ちゃん。ちょっと待って」
「どうしたんですか?」
「その……歩き疲れちゃって」
「えっ!……疲れたんですか?」
 美奈子が驚いた顔をする。もちろん、彼女の顔は汗一つかいていない。
 絵美の体力が無い訳ではない。少なくとも絵美は、普通の人並みに体力はある。つまり美奈子の方が、スタミナがありすぎるのだ。
 美奈子達の部屋を出て、すでに二時間。平板な道ならいざ知らず、寮内の入り組んだ道を、急な階段を、休みなく歩き続けているのだ。更に加えて、二人は朝飯前。起き抜けにそれだけ歩かされて、平然としているほうが普通じゃない。
「ちょっと、休ませて」
「別に構いませんけど。ここでですか?」
「食堂……開いてないかな?」
「食堂ですか?今、朝食の準備で忙しいみたいですけど……」
「座らせてもらうだけでいいから……」
「そうですか。それじゃあ、ちょっと訊いてきます」
 美奈子はそう言うと、食堂に入って行く。ほどなく、美奈子が手招きをした。
 かくして二人は、しばしの休憩をすることになったのである。
「……水しかないんですけど」
 美奈子は、コップをテーブルに置いた。
「うん……それで充分。ありがとう」
「でも、どうします?あと、三分の一位残ってますけど、このペースだと朝食前には、全部案内できませんよ」
「あと、なにが残ってるの?」
「あとは……図書室、自習室、自主研究室、資材室、第一、第二、第三企画室、精霊安置室、個人用魔法陣、共同魔法陣……」
「も、もういい……」
 絵美は右手をブンブン振った。
「それから、附与魔法学科と召喚魔法学科の居住区域といった所です」
「居住区域?さっき見なかった?」
「あそこは私達の学科の居住区域ですよ」
「私達の学科?」
「そうです」
「なんだか、いまいちピンと来ないんだけど……ねえ、美奈ちゃん」
「なんですか?」
「この学院の形体って、どうなってるの?」
「形体?」
「例えば美奈ちゃんのいる学科は、なんていう学科なの?」
「私の所は、創作魔法学科という所です」
「創作魔法ね。どんな魔法?」
「簡単に言うと、翼と喧嘩してた時に使っていた魔法のことです」
「あの、ウインドなんとかって奴?」
「ウインド・カッターと言うんですよ」
「そうそう、ウインド・カッター。美奈ちゃん、凄い力を持っているのね」
「あれは、私の力じゃありませんよ。精霊の力を操っているだけです」
「精霊の力?精霊っていうのは、あんなことができるの?」
「別に驚くことじゃありませんよ。ああいう力は、この学院の外でも、ごく自然に見られますから」
「そうかな……私は、あんな空気ナイフみたいな力を見た覚えは……」
 絵美は思案顔を見せていたが、突然ハッとした顔になった。「そうか!かまいたちのことか!」
「かまいたち?なんですか、それ」
 美奈子は不思議そうな顔を見せた。
「かまいたちっていうのは、空気のある部分が真空状態になって……」
 絵美は説明するが、美奈子はますます不思議そうな顔になる。
(どうもここの学問は、私が学んできたそれとは、根本的な違いがあるようね)
 絵美はそう感じると、説明をやめる。「要するに、さっき美奈ちゃんが言っていた精霊の力を、かまいたちって呼んでいるのよ」
「……はあ」
「しかし、魔法とはいえ、自然の力を自由に使いこなすとは……」
 絵美は感心した顔を見せる。「ねえ、他の学科はどんなことをやってるのかな?」
「他の学科ですか?他は私も、あまりよく知らないのですが……」
「知ってる範囲でいいよ」
「それで良ければ……と言っても、あと二つしか無いのですが」
「さっき言っていた奴ね。確か、附与魔法と……召喚魔法」
「ええ、そうです」
「附与魔法は昨日、直人君から聞いたからいいとして、召喚魔法っていうのは?」
「召喚魔法というのは、精霊そのものを実体化させ、それを操る魔法です」
「実体化?どういうこと?」
「つまり、精霊というのは、私達が存在している次元とは、違う次元の生物で……」
 美奈子が説明しようとする。しかし、突然チャイムが食堂内に鳴り響き、それを中断させた。
「なにかしら?」
「寮内放送ですよ」
「ああ、放送室あったもんね。そう言えば」
 絵美が一人で納得していると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「緊急放送。緊急放送。今日、午前七時三十分頃、精霊安置室、精霊小屋より、サラマンダー数匹が逃走。繰り返す……」
「サラマンダーが逃走?」
 絵美が言葉を繰り返す。すると突然、美奈子が立ち上がる。
「どうしたの?美奈ちゃん」
「おばちゃん!」
「へっ?」
 美奈子の突然の『おばちゃん』発言に、絵美は呆気顔になる。しかし、それは絵美に向けられたものではなかった。厨房から年相応の女性が顔を出す。
「なんだい?美奈ちゃん」
「おばちゃん!今日の献立は?」
「今日かい?今日は、トーストにベーコン・エッグにポテトサラダにオニオンスープ。そして、デザートは……」
「デザートは?」
「美奈ちゃんの大好物、バナナクレープ!」
「バナナクレープ!」
「あの……美奈ちゃん?」
「絵美さん、のんびり座ってる場合じゃありませんよ!早くしないと……」
「早くしないと?」
「ああ、説明するのももどかしい!とにかく来れば分かりますよ。実体化した精霊を見せてあげます!」
 美奈子はそう言うと、絵美の腕をつかみ、彼女を引きずるように走り出した。
「ちょ、ちょっと美奈ちゃん!待ってよ!」
 絵美が止めようとしたものの、すでに美奈子はドアを開けている。
 結局、絵美は彼女について行くことになったのである。

「朝食を?」
 絵美が驚きの声を上げると、美奈子はコクリとうなずいた。
「精霊を一匹捕まえるごとに報酬として、朝食をもう一人前もらえるんです」
「しかし、いくら精霊を捕まえるのが大変だからって、賞金まで掛けるとは……」
「それだけこういうことが、頻繁にあるということです」
「頻繁にねえ……」
 絵美は苦笑いする。二人は精霊安置室へと続く道を走っていた。先程の放送を聞いたのだろう。他の何人かの寮生も、同じ方向に向かっている。
「ねえ、美奈ちゃん」
「はい?」
「サラマンダーってどんな精霊なの?」
「下位の火精霊が実体化した物ですよ」
「やっぱり、小人さんなのかな?」
「小人さん?」
「だって、精霊って言ったら、そんなイメージがあるじゃない?七人の小人とか」
「……よく分かりませんけど、サラマンダーは小人じゃないですよ」
「違うの?」
「ええ、他の精霊には小人の形をしているのもありますけど、サラマンダーは……」
「ギャアアー!」
 突然、二人の耳に悲鳴が届き、二人の足を止めさせる。
「なに?今の悲鳴……」
「あそこから聞こえたみたいですけど……」
 美奈子が正面に見える部屋を指す。
「あそこ?」
「……たぶん」
「何か……無気味な雰囲気を感じる部屋ね」
「感じて当然です。あそこは天下の自主研究室なんですから」
「天下の?そりゃまた、すごい形容だ」
「仕方がありません。あの部屋は一部の人にとって、聖域みたいな場所なんですから」
「聖域?自主研究室が?」
「ええ、そうです」
「でも普通、自主研究室というと、研究や実験をするための部屋なんじゃないの?」
「だからこそです。つまりこの寮の中で、なにをしていてもお咎めがない、唯一の場所ということになるんです」
「なるほど」
 絵美は小さくうなずく。「しかし、そこから聞こえて来る悲鳴ってのは……」
「あんまり想像したくありませんね」
「でも、悲鳴を上げるなんてただごとじゃないだろうし……」
「どうします?」
「どうしますと言われても、このまま無視する訳には……」
「ギャアアー!」
 再び悲鳴が、続いて、何か大きな物が崩れる音が聞こえてくる。
「……なにが起こってるんでしょうね」
「しょうがない。ちょっと覗いてみよう」
「覗くって……絵美さん。危険ですよ」
「大丈夫。様子をみるだけだから。それよりも、中の人のほうが心配でしょ?」
「それはそうですけど……」
「美奈ちゃんは他の人に知らせてきて。今の騒ぎの中じゃ、気づいているのは私達だけだろうし」
「そんな!私も行きます」
「私もって……美奈ちゃん」
「私だって、中の様子が気になります。それに……」
「それに?」
「絵美さんを、一人で行かせることはできません!」
 そう言った彼女の顔は、絵美が見てきた中で、一番引き締まった顔だったのである。
「分かった。一緒に行きましょう」
「はい!」
「でも、最初に言っておくけど……」
「何ですか!」
「バナナクレープは諦めてよ。私に付き合う以上、そんな暇無くなるだろうから」
「うっ……」
 美奈子は言葉を詰まらせる。「……構いません。バナナクレープより、人の命です」
 そう言った彼女の顔は、絵美が見てきた中で、一番情けない顔だったのである。

「……失礼します」
 絵美は小さな声で言うと、恐る恐る部屋の中に入って行った。後ろには、絵美の袖をつかんでいる美奈子の姿がある。
「思ったより明るいな」
 絵美はそう言いながら、部屋の中をぐるっと見渡す。確かに、学生寮の無法地帯と呼ばれるだけの条件は満たされていた。
 得体の知れない実験器具や、薬品の棚がずらりと並ぶ光景は、異様という以外の表現をすることができない。
「誰かいませんか?いたら返事を……」
「絵美さん!あそこ!」
「な、なに?」
「あそこです!誰か倒れてますよ」
「……本当だ」
「どうします?」
「どうするもなにも……ほっとく訳にはいかないでしょ」
 絵美はそう言うと、恐る恐る近づいた。見た所、十六・七歳の青年である。
「死んでるんですか?」
「まさか!息はあるみたいだけど……」
「でも、全然動きませんよ」
「気絶してるだけだと思う。とりあえず、どこかに運んだ方が……あら?これは」
 絵美は、そばに落ちていたそれを拾い上げる。
「何ですかそれ?」
「ボウガンかしら……この形からして」
「ボウガン?」
「そう、弓が取り付けられてるでしょう。ここに矢をセットして、この引き金を引くと矢が飛び出す仕組みになっているのよ」
「へー、上手くできているんですね」
「大きさからして、片手用って所か……でもなんでこんな物が」
「この人の持ち物じゃないんですか?」
「たぶん、そうだろうけど……随分、物騒な物を持ってるのね」
「さっきの悲鳴って、この人ですよね」
「そうね。他に人はいないみたいだし」
「その物騒な物を持っていた人が、悲鳴を上げる程のことって……」
「ちょ、ちょっと美奈ちゃん。突然、変なこと言って脅かすのは……」
 絵美はそこで話すのを止める。思わず、想像してしまったのだろう。「み、美奈ちゃん……そろそろ、ここを出ましょうか?」
「そ、そうですね、この人の容体も心配ですし……」
 二人はこわばった笑みを見せると、彼の体を持ち上げ、一目散に部屋の外へ……
「ワッ!」
 突然、絵美は驚きの声を上げた。
「どうしたんですか?」
「今……なにか頭に落ちてきたんだけど」
「なにかって?」
「なんだろう……ヒッ!」
「絵美さん!」
「今……頭の上で……動いてる」
「絵美さぁん……脅かさないで下さいよ」
「美奈ちゃん、ちょっと見てよ」
「や、やですよ」
「そんなあ」
 絵美が情けない声を出した時、それは彼女の頭からずり落ちた。絵美は、思わずそれをキャッチする。
「キャアア!」
 絹を裂くとは程遠い、絵美の悲鳴が上がった。「ト、ト、トカゲー」
 絵美は叫ぶと、トカゲをつかんだままブンブン振り回す。
「み、美奈ちゃん!見てないで助けてよ!」
「えっ?」
 絵美の慌て振りに美奈子は呆然としていたが、ハッと意識を取り戻すと絵美からトカゲを奪い取った。
「これはトカゲじゃないですよ。絵美さん」
「なに言ってんの!どこから見てもトカゲにしか見えない!」
「違いますってば。よく見てくださいよ」
「ち、近づけなくていい!」
「でも……」
「わ、分かった。それはトカゲじゃない。絶対違う。私が保障する。だからトカゲを近づけないで!」
「あのですねえ……」
 美奈子もさすがに呆れてしまった。「とにかく落ち着いて。これはトカゲに見えますけど、トカゲとは別の物なんです」
「まさか、イモリだと言うつもりじゃ……」
「違います!」
「じゃあ、なんなの」
「サラマンダーですよ」
 美奈子は満面の笑みを浮かべる。「これでバナナクレープはいただきです」
「サラマンダー?バナナクレープ?」
 絵美は状況を把握してないのか、とぼけた顔を見せた。「ちょっと待ってよ。……もしかして、それがさっき言ってた精霊?」
「そうです。これが下位の火精霊が実体化した姿。サラマンダーです」
 美奈子はそう言いながら、サラマンダーをつまみ上げる。「触ってみます?」
「いい!近づけないで!」
「大丈夫ですよ。暴れたりしませんから」
「そ、そういう問題じゃなくって」
「ほら、よく見るとかわいいですよ」
「やー!やめて!」
 絵美は露骨に嫌がる。美奈子もそんな彼女のうろたえ振りがおもしろいのだろう。わざと絵美の顔にそれを近づけていった。
「う……うーん」
 あまりの騒がしさに、青年は目を覚ましたらしい。「ここは……僕はいったい……」
 青年は惚けた顔でつぶやく。次の瞬間、青年の顔色が変わる……
「……絵美さん」
「やめて!近づけないで!」
「もう、とっくにやめてますよ。それより目を覚ましてますよ。あの人」
「えっ、本当?……良かった」
「なにについて良かったんですか?」
「いや、その……とにかくこれで人を呼ぶ必要が無くなった」
 絵美は愛想笑いをすると、青年の方に顔を向けた。「とりあえず気がついて良かった。あなた、いったいここでなにを……」
「ト……」
 青年は真っ青な顔で、なにやらつぶやき始める。「トトト……」
「どうしたの?顔色、ものすごく悪いよ」
「トトトトト……」
「ト?なにを言ってんの?」
「トトトトトトト……トカゲ!」
「へっ?」
「トカゲ、恐いー!」
 青年は叫ぶと、近くにあったボウガンを手にする。
「ちょ、ちょっと……なにを……」
「トカゲー!」
 彼は叫びながら、懐から束にした矢を取りだし、素早くセットする。「トカゲ!あっち行けー!」
 彼は躊躇せず引き金を引く。風を切る音とともに、小さい矢が壁に突き刺さった。
「ねえ、美奈ちゃん」
 絵美は顔を真っ青にさせる。
「な、なんですか?」
 美奈子も同様である。
「この壁に突き刺さっているものって……いったいなんなのかな?」
「矢……みたいですね……」
「本物かな……」
「じゃないですか?」
「そうか……美奈ちゃんもそう思うか……」
「え、絵美さぁん……」
「ちょ、ちょっと美奈ちゃん、しがみつかないでよ!」
「だ、だって……この人の目、血走ってて恐い……」
「そ、そんなの私も同じ……」
「トカゲ……」
「ワッ!」
 絵美は顔をこわばらせる。「き、君……とにかく落ち着いて」
「ウギャアア!トカゲがいる!」
 青年は絵美の頼りない説得をあっさり無視すると、二本目の矢を……
「だ……駄目だ!」
「絵美さん!逃げましょう!」
「でも……ヒッ」
 二本目の矢が、絵美の顔をかすめた。さっと青年を見ると、すでに三本目を……
「わ、分かった。美奈ちゃん!ダッシュ!」
「ハ、ハイ!」
 二人は同時に走り出す。部屋から出て一安心……できなかった。
「ト……トカゲ……」
 青年が血走った目をぎょろりとさせて追いかけてくる。
「な……なんで?」
 二人は恐怖に染まった顔をする。しかし彼にはそんなこと関係ない。
「トカゲー!」
 矢はあらぬ方向に飛んでいくと、天井に突き刺さった。
 だが、彼の行動を笑ってる場合じゃない。二人は一目散に走り出す。
「何で私達を追ってくるの?」
「そんなの、本人に訊いて下さい!」
「あんなのに訊ける訳ない!」
「だからって私に訊かれても……ワッ!」
「なに?」
「やっぱり追いかけてくる!」
「そんなの言われなくたって……」
「トカゲー、恐い!」
 青年が狂気に満ちた声で叫ぶ。
「え、絵美さん!なんであの人はトカゲって叫んでるんですか?」
「そんなの知る訳……それよ」
「えっ?」
「美奈ちゃん!その手に持ってる奴……」
「このサラマンダーがなにか?」
「それ見て追いかけてきてんのよ!あの人はきっと……」
「でもこれはトカゲじゃなくて、サラマンダー……」
「そんなの関係ない!外見はトカゲでしょ」
「そうですけど……」
「早くそれを捨てて!」
「でも……」
「でも?なに?」
「……せっかく捕まえたのに」
「命の方が大事でしょ!今回は諦めて!」
「今日はバナナクレープなのに……」
「そんなこと言ってる場合じゃない!」
「一カ月振りなのに……」
「私の分あげる!」
「分かりました!」
 美奈子は素直にうなずくと、サラマンダーを投げ捨てた。しかし……
「ぎゃああ!トカゲ!」
 見事、青年は顔でサラマンダーをキャッチした。しかも彼の反応は、前と少しも変わっていない。「トカゲー!」
「絵美さぁん……全然変わってませんよぉ」
「すでに見境がなくなってんじゃないの?」
「そんな……じゃあ、どうすれば……」
「知らない!とにかく今は、逃げるのみ」
 絵美がそう言うと、二人はスピードを上げる。しかし、青年もそれに合わせるようにスピードを上げてきた。
「えーん!誰か助けてー!」
 結局、二人はしばらくの間、寮の中をひたすら逃げ回ることになったのである。

「……二十八匹か」
 直人は一息ついた。「全部で何匹だっけ?千歳さん」
「全部で三十よ」
 千歳と呼ばれた彼女は、さらりと答える。
「てことは、残り二匹……」
「そういうことになるわね。毎度のことながら、直人には世話をかけるわ」
「別に構わないよ。千歳さんが、このイベントを企画してくれたから、朝食も多く食べることができるんだからな」
「なんだ、今回も捕まえたんだ」
「五匹ほどな、放送が流れてすぐだ」
「随分早いわね」
「早いのは、直人だけじゃねえぞ」
 翼が、突然割り込んで来る。「俺も同時に捕まえたんだ!」
「あら、翼も?」
「一匹だけだけどな」
「たいしたものね。うちの生徒でさえ、なかなか捕まえられないのに」
「実は、最近サラマンダーが集まる場所を見つけてな。こいつもそこに連れてったんだ」
「へー、サラマンダーが好む場所があったなんて初耳だわ」
「直人!なんで千歳にばらすんだよ」
「別にいいだろう。俺が見つけた場所なんだから」
「よくねえ!教えなければ、いつでも他の奴を出し抜くことができるんだぞ」
「俺は、そういうのが嫌いなの。ったく……そんなみみっちいこと言ってると、ろくな大人にならないぞ」
「直人の言う通りよ。このイベントは、人を出し抜くために、企画してる訳じゃないんだから」
「そりゃ、そうだけど……」
「納得したんだったら、ぐじぐじ文句を言うな!あんた、男の子でしょう?」
「……ウーッ」
「翼!返事は?」
「……はい」
「よろしい」
 千歳は、満足げに微笑んだが、すぐに不満気な表情になる。「やっぱり、この企画まずかったかな……」
「企画って、朝食二人前のことか?」
「そう、寮の人に参加してもらって、作業すれば効率がいいと思ったんだけど……」
「逆に、そういう奴が出てくるのは、考えもんだな」
「そういう奴って、どういう奴だ?」
「翼みたいな奴のことだ」
「そ、それは例えばの話を……」
「全然、例えになってなかったぞ」
「とにかく、今後のためにも何か良い方法がないものかしらね」
「千歳、お前召喚魔法の使い手なんだろう」
 翼が口を出す。「だったら、逃げたサラマンダーを操ることができねえのか?」
「うーん。はっきり言って、それは無理ね」
「どうして?」
「あそこで飼ってる精霊達は、普通の精霊じゃないんだもの」
「なんか、違うのか?」
「あの精霊達は、魔法に失敗したり、なにかのアクシデントの結果、呼び出された精霊なの。普通の方法で召喚した訳じゃないから、精霊には召喚者の命令は聞こえないのよ」
「つまり操れねえってことか」
「そういうこと」
「いい考えだと思ったんだけどな」
「どっちかと言うと、逃げるのを防止する方法を考えたほうがいいんじゃないのか?なぜサラマンダーが逃げ出すのか」
「サラマンダーだけで、終わってくれればいいんだけど……」
「えっ?他の精霊も逃げてるのか?」
「ううん。別にそういう訳じゃ……」
「どういうことだ?」
「やっぱり話さないと駄目かな?」
「駄目じゃないけど、そうしないと対策の立てようがないな」
「うーん、精霊管理の責任上、あまり話したくなかったんだけどな」
「別に無理して話さなくてもいいぞ」
「いや、ここは話した方がいいわ。このことが後々問題になってもまずいし」
「なんか、やばそうな話じゃないのか?」
「うん、とってもやばい話」
「あの……俺は今のままで充分だから」
「ここまで来て、それはないでしょう」
「そうだぞ直人。せっかく千歳が話すって言ってんだ。最後まで聞け」
「翼も聞く?」
「おう、俺は直人と違うから、どんなやばい話でも聞いてやるぜ」
「で、直人は?」
「……分かったよ。でも、俺の力を期待すんなよ」
「大丈夫。そんなの百も承知だから」
「えっ?」
「い、いや……とにかく、知恵を貸して」
「はいはい」
「実はね……」
「だ、誰か助けてー」
 突然の悲鳴に、千歳は出鼻をくじかれた。
「……なにかしら?今の悲鳴」
「声からすると、女だな」
「サラマンダーに、襲われてんじゃねえの」
「そんな女は、この寮にはいねえよ。サラマンダーがおとなしい精霊だっていうのは、有名な話だ」
「昨日、今日きた人じゃなきゃ、あれを見て逃げ回る人は、いないってことね」
「そういうこと……あっ!」
「どうした、直人?」
 翼が直人の表情の変化に気づく。
「一人だけ当てはまる人物が……」
「あ、もしかして」
「えっ?なに?誰なの?」
「た、た、助けてー!」
 二人が予想した通りの人物が走ってきた。
「やっぱり絵美ちゃんか」
「そんなとこだと思ったぜ」
「見慣れない人ね。新入生?」
「いや、そうじゃなくって……あれ?一緒に走ってんの美奈ちゃんじゃないか?」
「本当だ。なんで、美奈子まで……」
 三人が傍観していると、彼女達も直人達に気づいたらしい。
「な、直人君!」
 絵美はそう言うと、直人達の前で立ち止まる。
「どうした?そんな汗だらけで」
「そ……それが……サラマンダーを……」
「やっぱりな」
「えっ?なにが……やっぱり……なの?」
「いや、なんでも……しかし、なんで美奈ちゃんまで走ってたんだ」
「その……えっとですね……」
「美奈ちゃん、少し落ち着いて……」
「サラマンダーごときでうろたえるとは、魔法使いとして失格だな。美奈子!」
「な……なにを……訳分かんないことを……あんたは……」
「と……とにかく……助けて!」
「助けてと言われても……」
「もうすぐ……来るから」
「もうすぐ?」
「あ……あれ」
 絵美が指さした方向から、それは走ってきた。顔にサラマンダーを張り付けて、ボウガンの矢を乱射しながら走ってくる青年……
「トーカーゲー!」
「あーっ!あれは圭介じゃねえか」
「し……知ってる人?」
「まあ、寮長という立場上な……」
「と……とにかく助けて」
「分かった。翼、スネアを唱えろ」
「えーっ、やだよ、そんな地味な魔法」
「俺のデザートをやるから」
「そんなもんじゃ、俺は釣られねえぜ」
「今日は……バナナクレープ」
「よっしゃ!任せとけ!」
 翼は忙しく指を動かすと、「スネア!」と叫び、青年の前の床を隆起させた。
 突然の凹凸に、バランスを崩した青年は、前につんのめる。そして、片足をぴょんぴょんさせながら直人の手前まできた。
「せーの……」
 掛け声とともに、直人は青年の後頭部を一撃する。青年は顔から倒れると、そのまま気絶してしまった。
「全く、顔になんてものを張り付けてんだ」
 直人は、青年の顔からサラマンダーをはがすと、千歳に手渡した。
「これで、二十九匹と」
「あと一匹、どこに行ったのかな」
「ここからいつも、時間かかるからな」
「ちょっとそこ。何事もなかったような態度を取らないで!」
 絵美が二人に割り込んできた。だいぶ息は整ってきたらしい。「助けてもらったのは、ありがたいんだけど……」
「そうそう、いったいなにがあったんだ」
「なんか、随分おざなりね……」
「いいから、話せって」
「……知らない。と言うより、こっちが知りたい。なんでこの人に追われたのか、さっぱり検討つかない」
「美奈ちゃんは?」
 直人が訊くと、美奈子は首を横に振った。
「しかし俺だって、この条件で検討しろっていうのは……」
「そういえば、さっきこの人を圭介って呼ばなかった?」
「ああ、こいつの名前だよ。ちょっと変わった奴で、附与魔法学科の中では、結構有名なんだ」
「へー、あの附与魔法学科の……」
 絵美は感心した声を上げる。「本当に変な人が多いのね」
「まあ、変わっているといっても、凶暴という訳じゃない。普段はおとなしい性格のはずだからな。たぶん、目を覚ましても暴れはしないと思うから、その後ゆっくりこいつから事情を聞けばいいさ」
「確かに……と言うより、それ以外真相を確かめる方法が無いか」
「そういうことだ。しかし困ったな。こっちの方が、まだ片づいてないってのに……」
「こっちって?」
「サラマンダー捜しだよ。あと一匹、見つけないと」
「私の方は構わないわよ。最後の一匹がいつ出てくるか分からないし」
 今度は千歳が割り込んでくる。
「しかし、千歳さん……」
「この人が起きて、万が一暴れ出したりでもしたら、まずいんじゃないの?」
「まあ……そうなんだけど」
「そのかわり。さっきの話、ちゃんと後で相談のってよ」
「……分かってるよ」
「それじゃ、いったん私はサラマンダーを元の所に戻してくるわ」
「ああ。それじゃ又、朝食の後に……」
「そうね」
 そう言うと彼女は、サラマンダーの入っている箱を持ち上げて立ち去ろうとする。が、突然足を止めた。「そういえば……」
「どうした?」
「いや、直人じゃなくってあなた」
「えっ?私?」
 指名されて、絵美は驚いた顔をする。
「自己紹介、まだだったわよね」
「は、はい。私は……」
「まずは私!私は柳沢千歳、召喚魔法学科の担当をしてる者よ」
「橘絵美です。一般教養の担当で……」
「あら、絵美ちゃんも先生だったの」
 千歳は驚きの顔を見せる。「ま、ここじゃそんなこと関係ないか」
「はあ……」
「とにかく同じ先生同士ってことだし、これから仲良くやってこうね」
 千歳はそう言うと、絵美にウインクして見せたのであった。

「ドアが開けられてる?」
 直人が怪訝な顔をすると、千歳はコクンとうなずいた。寮の食堂である。
 青年の見張りを、先に食事を取っている美奈子と翼に頼み、二人は遅めの朝食を食べていた。そこに直人を捜していた千歳が加わったのである。
「確か精霊安置室の部屋って、鍵を掛けてるんじゃなかったのか?」
「もちろん掛けてるわよ。だから不思議なんじゃない」
「誰かが、合い鍵でも作ってんじゃない?」
「その可能性は充分あるわ。でも、問題はそこじゃないの。どうやってドアを開けたのかじゃなくって、なんでドアを開けたのかってことなのよ」
「なんか、推理小説みたいなノリだな」
「いいでしょう。そっちの方が盛り上がるんだから」
「別に構わないけど……そういや、なんで精霊安置室は鍵を掛けているんだ?」
「なにか貴重な物でも置いてるの?」
「そういう訳じゃないんだけど……ただ精霊とはいえ、生物を置いている部屋だからね。いたずらしようとする奴がいるのよ」
「どんな学校でも、そういう奴が一人はいるものなのね」
 絵美は呆れた顔を見せる。「兎や鶏をいじめて、なにが楽しいんだろう?」
「そうそう、動物がしゃべれないことをいいことに、マジックで落書きしたり、卵を盗み取ったり……」
「直人君……随分詳しいね」
「俺はやったことないぞ!ただ、そういうことをしてる奴がいたって……」
「まあ、その程度ならいいんだけど、変に危害を加えられるとまずいのよ」
「まずい?」
「なんせここにいるのは兎や鶏なんかじゃなくて、実体化した精霊なんだから」
「確かに、普通の生物じゃないね」
「そう、普通の生物じゃないし、あまり生態が分かっていない」
「精霊魔法学が知れ渡る前は、架空の生物と思われてたからな」
「つまり、貴重な生物だってこと?」
「そうじゃなくて、危険でしょう?生態の分かってない生物に刺激を与えたら」
「そうだな、おとなしい精霊と思ってたら、突然襲われて、食べられましたじゃ笑い話にもならない」
「まあ、それはそいつが悪いだけで、自業自得なんだから別に構わないんだけど。炎なんか突然吐かれたら……」
「寮が火事になっちまうな」
「そういうこと。だから必要な時以外は、あそこの部屋は開かないようになってんのよ」
「なるほど……しかし、いたずらするためにドアを開けたというのは……あまりにリアリティーがないか」
「普通、忍び込む危険を冒してまで、精霊にいたずらしようなんて考えないもんね」
「普通、そう思うでしょう?」
「へっ?」
 二人が拍子抜けた顔をする。「普通って……まさか」
「その、まさか」
「いたずらされてたの?」
「まあ、それがいたずらなのかって言われると、いまいち確証が無いんだけどね」
「どんなことされてたんだ?」
「檻が開けられてるのよ」
「檻って……精霊達を入れている?」
「そう。しかも、サラマンダーの檻だけ」
「じゃあ、サラマンダーが逃げてるんじゃなくって、サラマンダーを逃がしている奴がいるってことか?」
「そういうこと」
「サラマンダー自身が檻の鍵を開けたんじゃないの?」
「それは無いと思うわ。サラマンダーの知能は、トカゲやヘビ程度だろうというのが、今の定説だもの」
「トカゲが鍵を開けたという話は……聞いたことないか」
「猿だったらあるんだけどね」
「サラマンダーが自ら逃げ出すことができないということは……」
「誰かが故意に、サラマンダーを逃がしてるとしか思えないということよ」
 千歳はため息をついた。
「なんだ、それじゃ動機がはっきりしてるじゃないか」
「全然、はっきりしてないわよ。なぜ、サラマンダーを逃がしてるのかが分かんなきゃ、動機とは呼べないわ」
「サラマンダーに、異常な愛着を持っているとか?」
「いや、愉快犯の線が一番自然だろう」
「でも、それならサラマンダーでなくてもいいと思うけど」
「そうね。あの部屋には、サラマンダーよりすばしっこい精霊や、特殊能力を持った精霊はいっぱいいるわよ」
「やっぱり、サラマンダーに愛着を持った人が……」
「それも考えずらいわ。今回はまだだけど、今まで逃げたサラマンダーは全部回収しているもの。ちょっと考えれば、その場で逃がしても仕方がないことに気づくわ」
「……そうだね」
 絵美が考え込む。すると、
「わかった!報酬目当てだ!」
 突然、直人が得意気に言った。
「報酬目当て?」
「そうだよ。最初にサラマンダーを逃がし、放送がなったら千歳さんの所へ……」
「直人……あの企画を出したのはいつだったかしら?」
「あの企画って?」
「サラマンダーに賞金をかけた企画のこと」
「ああそうか。えーと、確か……二カ月くらい前だったような」
「サラマンダーが逃げ出し始めたのは?」
「……三カ月前だな」
「それで?犯人は一月も前からこうなることを知っていたと?」
「ウッ……」
「犯人は予知能力を持っているのかしら?」
「そ、それは……」
 直人は言葉を詰まらせる。「そうだ!折を見て、そいつがこの企画を提案したんだ!」
「ほう……で、この企画を提案したのは?」
「えっ?」
「誰だったっけ?直人クン?」
「……千歳さんだったけ」
「そう、たしか直人は前からそれを知ってたわよね」
「そ、それはだな……」
「今、私が悩んでいるのは私のせいだと?つまり、私が演技していると?」
「そうじゃなくって……俺は一つの可能性としてだな……」
「なんで私が、あんたに頭を下げてまでそんな演技をしなくちゃならないの?」
「頭なんか下げてないじゃないか」
「……開き直ったわね」
「いや……その……」
「どうやら少し、目上の人に対する態度ってものを、教えなきゃならないようね」
「教えるって……まさか!」
「そのまさかよ」
「わ、分かった。取り消す。取り消すからあれだけは止めて!」
「もう遅い!」
 千歳は言うと、指を忙しく動かし、「サラマンダー召喚!」と叫ぶ。次の瞬間……
「ギャアア!」
 直人が、人のものとは思えないような叫び声を上げた。絵美もあまりの光景に顔を青くして、口元を押さえる。それはまさに地獄絵図としか言いようが無かった。
 何百というサラマンダーが、直人の頭上に雨のように降ってくると、それらが全て直人の服の中に入り込もうとしているのである。はっきり言って、この異様さ、この気持ち悪さを言葉で表わすことはできない!
「や、や、やめてくれ!俺が悪かった!」
「駄目よ。私を疑うなんて本当は万死に値するんだから。しばらくそのままでいなさい」
「そんなこと言わないで……ムグッ!」
「ほらほら、口を開けてると、中に入ってくるわよ!」
「ち、千歳さぁん」
「どうしたの絵美ちゃん。顔が青いわよ」
「当たり前だよ。こんなの突然見せられて、平然としてられるほど、神経図太くない!」
「まあまあ、そのうち慣れてくるわよ」
「慣れるって、そんな……ウッ」
 絵美は口元を押さえる。「とにかく、そんな気持ち悪いこと止めてよ!」
「そお?結構おもしろいのに、ほら今、鼻の中に頭を突っ込んで……」
「解説しないで!せっかく目を反らしてるんだから!」
「……しょうがないわね」
 千歳はパチンと指を鳴らす。すると、今まで直人に襲いかかっていたサラマンダー達がフッと消えた。「絵美ちゃんに感謝しなさいよ。彼女の頼みが無かったら、あと一時間はそのままだったんだからね!ちゃんと聞いてるの?」
「……聞いてる訳ないと思う」
 なぜか、そう答えたのは絵美だった。それもその筈で……
「確かに、完全に気絶してるもんね」
「あんなことされたら、誰だって気絶するに決まってるよ」
 絵美はそう言うと、手で頭を押さえる仕種をしたのだった。

「ここは……」
 突然、青年はガバッと起き上がった。続いて辺りを見渡す。「保険室?なんで、僕はこんな所に……」
「俺達が運んだんだよ」
「えっ?」
 青年は、声のする方を見る。そこには、同じ顔した二人の子供が、同じようにバナナクレープを食べている光景があった。「あの、君達は……」
「……散々、私のことを追いかけ回したくせに、随分な言い方ですね」
「君を追いかけ回した?」
「まあ、それはいいとして美奈子、直人達に知らせてこいよ」
「なんで、私が行かなきゃなんないのよ」
「俺は、こいつが逃げないように見張ってなきゃならねえんだよ」
「だったら私が見張ってるから、翼が行けばいいじゃないの」
「お前じゃ役不足なんだよ」
「なによそれ?」
「お前、さっきこいつに追いかけ回されたじゃねえか。その点、俺はこいつを取り押さえてるんだぜ」
「なに言ってんのよ。あんたは、直人さんに言われるまま動いてただけでしょ」
「フン!直人に言われなくたって、こんな奴の一人や二人……」
「どうだか、あんな地味な魔法って言ってたくせに」
「しょうがねえだろう、地味なんだから。俺だって、あんな地面をデコボコにさせるだけの魔法を使うなんて、本当はプライドが許さなかったんだ」
「でも、現に使ったじゃない」
「それは、直人がどうしてもって、頭を下げるから……」
「バナナクレープで、手を打ったんだ。随分安いプライドね」
「なんだと!これは直人が食べろって言ったんだ!俺は別に……」
「説得力ないよ。口の周りに生クリームべっとりくっつけてたら」
「お、お前だって絵美のバナナクレープを食べてんじゃねえか!」
「私は素直にいただきますって言ったもの、あんたみたく、恩着せがましく五つももらったりしてないわ」
「ウヌヌ……」
 翼が言葉に詰まっていると、
「あの……」
 青年が声を掛けてきた。「事情が良く飲み込めないんだけど……君達は?」
「人の名前を訊く前に、まず自分が名乗れ」
「そ、そうだね。僕は……」
「あ、ちょっと待って。名乗るんだったら、直人さん達がそろってからにしてよ」
「そんなこと言うんだったら、美奈子が呼びに行けよな」
「……分かったわよ。それじゃ、少し待ってて下さい」
「それなら、僕も一緒に行くよ」
「じゃあ、そうして下さい」
「ちょっと待てよ!そんなこと言って逃げる気なんだろ」
「まさか、そんな気全然ありませんよ」
「いーや、お前は突然、なにするか分からない人物だからな」
「文句言うんなら、あんたもついてくればいいでしょう」
「言われるまでもない。俺が見ている間に暴れたら承知しないから、変な気起こすなよ」
「分かりました」
 青年は温和な笑みを見せる。
 かくして、双子にはさまれた形になった青年は、保険室を後にしたのであった。

「さて、どうしたものかしら」
 千歳はため息をつく。「頼りにしていた直人は気絶しちゃうし」
「千歳さんが気絶させたんでしょ」
「そりゃそうなんだけど」
 千歳は軽く笑う。「ま、過ぎたことは仕方がない。頼りは絵美ちゃん、ただ一人よ!」
「……そんなこと言って、私が気に入らない答えを言ったら、サラマンダー責めにする気なんでしょ」
「大丈夫よ。私は女の子に、そんなことする趣味はないわ」
「本当に?」
「本当。そのかわり、男は容赦ないけどね」
「いまいち信用しずらいな……」
「ところで、話の続きなんだけど……」
「いきなり始めないでよ」
「細かいことを気にしてるとハゲるわよ」
「女でもハゲるのかしら」
「と、とにかくサラマンダーだけを逃がしている奴がいるのよ」
「でも、動機も分からないのに、犯人像なんか浮かぶ訳が……あれっ?」
 絵美は突然、ハッとした顔になる。「そう言えばさっき、サラマンダーが逃げ出し始めたのは、三カ月前だって言ったよね」
「ええ、そうよ」
「その間に、犯人を捕まえようとか言う人はいなかったの?」
「いたわよ。と言うより、最初の頃は、学科の生徒全員が、犯人を捕まえようって騒いでいた時期があったわ」
「時期って……今は?」
「今は誰もやってないわ。完全に寮の名物になっちゃったからね。サラマンダー狩りは」
「寮の名物……」
 絵美は苦笑した。「それで、捕まえようとした時期には、どんなことをしていたの?」
「いろいろしていたわよ。二十四時間体制で見張りを立てて、外部からの進入をチェックして、檻には何重にも鍵をかけて……」
「それでも捕まらなかったの?」
「そうなのよ。それがすごい話でね、見張りがちょっと目を話した隙に、必ず数匹のサラマンダーが逃げ出しているのよ」
「ちょっとって、どれくらい」
「だいたい、十分くらいかな。見張っているのはプロの警備員じゃないからね。昼間は授業を受けているし、眠くもなるわ」
「十分もあれば、時間があるような感じもするけど」
「甘いわ絵美ちゃん。二十四時間の中の十分よ。しかも、その十分がいつ起こるか分からない。それなのに、そいつは一度もそれを見逃さなかったのよ」
「そう言われてみれば……」
「複数犯説、共謀犯説ということも考えたんだけど……」
「そんなこと言ってたら、見張っていた全員が怪しいということになるね」
「その通り。おかげで、居住区にいた人同士がお互いを疑い出して、だんだん居住区の中がギスギスし始めちゃったのよ」
 千歳はため息をついた。「疑われてまで見張りをしようなんて、馬鹿らしすぎる……という訳で、犯人を捕まえるのは止めようということになったのよ」
「なるほど……だったら、プロの警備員を頼めば良かったのに」
「この学院にそんなお金はないわよ。設備投資だけで、何十億ってお金が掛かっているんだから」
「そうか、でも犯人を見つけるのは、それが一番いい方法だと思うんだけど」
「それは認めるわ。誰かいないのかしらね。見張りをしてくれる人」
「条件が厳しすぎるよ。二十四時間眠らず、隙が無く、お金が掛からず、力も強い」
「それで、精霊魔法学に長けてれば問題無しなんだけど」
 そう言うと、二人は同時に笑った。
「そんな人いる訳ないか」
「はっきり言って、いないわね」
「いたら人間じゃないよ、その人」
「その通り!人間じゃ……」
 突然、千歳が顔を閃かせる。「いたわ」
「そうそう、いた……」
 絵美が、顔を凍りつかせる。「あの……千歳さん?今、なんて……」
「いるのよ!条件にピッタリ合ったのが」
「そんな馬鹿な!そんなの人間じゃないよ」
「その通り。人間じゃない」
「へっ?」
「そうと分かれば早速実行よ。絵美ちゃん。相談にのってくれて、ありがとね」
 千歳はそう言うと、拍子抜けした絵美を置いて、食堂から出ていってしまった。
「人間じゃないって、いったいなにを……」
 絵美は誰もいない(気絶している直人は除く)食堂で、問いを投げかけたのであった。

「やっぱり……」
 絵美は倒れている直人を見下ろした。「このままにしておくのはまずいよね」
 千歳が食堂を後にしてから数分後、絵美はしばらく直人の様子を見ていた。だが彼は一向に目を覚ましそうになかった。
「しょうがない、保険室に運ぶか」
 絵美は一人、決意を固めると、直人を背負うことにした。しかし……
「……重い」
 絵美は小さくつぶやく。いくら年下とはいえ、相手は成長期の若者である。自分より体重がある者を背負って、重くない訳が無い。
「きゃっ!」
 数秒後。絶え切れなくなった彼女は、そのまま崩れるように倒れたのであった。
(無理なことはするもんじゃないな)
 絵美はうつ伏せの体勢のまま、ため息を吐く。すると……
「なにやってんだ?絵美」
 入り口のドアから怪訝な顔をした翼が入ってきた。
 まあ、食堂に入るなり、直人に押し潰されている彼女の姿を見て、それを平然と受けとめる方が不自然なのだが……
 もちろん、続いて食堂に入ってきた美奈子も同じで、
「絵美さん!」
 と言うと、絶句してしまった。
「美奈ちゃん。翼君。ちょうどいい所に!手伝って」
「いったいどうしたんだ?こんな所で絵美を押し倒して」
「実は……」
 絵美は理由を話そうとしたのだが、突然顔を凍りつかせた。「押し倒す?誰が?」
「直人がだよ。直人に押し倒されたんじゃないのか?」
「違う違う!押し倒されたんじない!」
「でも、そうとしか見えねえけど……」
「違うってば!押し倒されたんじゃなくて、押し潰されたの!」
「同じことだろ?」
「同じじゃない!直人君は気絶して……」
「……不潔です」
 突然、美奈子がボソッとつぶやいた。「こんな明るい内から、しかも誰もいない食堂でそんなことをしているなんて……」
「ちょ、ちょっと美奈ちゃん、なにか勘違いをしているんじゃ……」
「絵美さんも直人さんも不潔です!」
 そう叫ぶと、美奈子は指を忙しく動かし始めた。「サンダー・ボルト!」
 次の瞬間、美奈子の手から稲妻が発生し、絵美のすぐ側の床を焦げさせた。
「……今のは警告です。三つ数える内に離れて下さい」
「離れるから、ちょっと手伝ってよ」
「一つ……」
「美奈ちゃん!私の話を……」
「二つ……」
 すでに美奈子は魔法の用意を始めている。
「絵美!離れろ。美奈子はマジでやるぞ」
「だから、離れたいんだけど……」
「三つ!」
「美奈ちゃん。ちょっと待って!」
「問答無用のサンダー・ボルト!」
 次の瞬間、美奈子の手から稲妻が打ち出され、二人に直撃したのであった。

「千歳さんの仕業?」
 美奈子は驚いた顔をする。
「そう。俺は千歳さんのサラマンダー責めに会って、気絶していたの」
 黒焦げた姿の直人が答える。どうやら先程の電気ショックで目を覚ましたようだ。
「それじゃ、どうやって絵美さんを押し倒したんですか?」
「気絶してるってのに、押し倒せる訳ないだろう」
「だから私が直人君をおぶさろうとして、そのまま押し潰されただけだって」
「……本当ですか?」
『本当!』
 二人に同時に言われ、美奈子は渋々納得したのであった。
「あの……」
 絵美は声のするほうを見る。そこには、落ち着きなさそうに座っている、青年の姿があった。
「あ、ごめん。すっかり忘れてた」
「すぐになんでも忘れるなよな」
「あ、翼君いたの?すっかり忘れてた」
「あのなあ……」
「冗談よ冗談」
「あの……」
「ごめんごめん。えっと、大原……圭介君だったよね」
「そうです。その……すみません!」
 圭介は突然頭を下げる。彼の突然の行動に四人は呆気にとられた顔をした。
「えっと……突然謝られると、なにも言えなくなっちゃうんだけど……」
「なにも言わなくて結構です!どうせいつものことなんですから」
「フーン。いつもボウガン片手に女の子を追い回しているんですか」
 美奈子が白い目で圭介を見る。
「い、いえ。ボウガンはたまたま持っていただけです。いつもは見境が無くなって、ただ暴れまわるだけで……」
「……暴れ回るだけね」
 絵美はため息をついた。「なんでいつも暴れ回っちゃう訳?」
「さあ……」
「さあって……あのねえ」
「すみません。僕にもよく分からないんですよ。ただ……」
「ただ?」
「ただ友達の話だと、サラマンダーが何か関係しているらしいんです」
「私もそう思う。トカゲが恐いって、わめいていたものね」
「へっ?トカゲ……ですか?」
「そうトカゲ」
「あの……つかぬことを聞きますが」
「なに?」
「トカゲってなんですか?」
 食堂内が一瞬静まり返る。
「……それ、冗談のつもり?」
「冗談じゃないですよ」
「説明するのも馬鹿馬鹿しい。トカゲっていうのは……」
「こういう奴だ」
 突然、翼が会話に割り込んでくる。そしてその手には……
「どうしたんだ。そのサラマンダーは?」
 直人が驚き顔で訊いてくる。
「へっへー。実はさっき、保険室で歩き回ってるのを捕まえたんだ」
「だったら、千歳さんの所に持っていけよ」
「甘いな直人。どうせ持って行くなら、明日の朝食のデザートを調べてからの方がいいに決まってんだろ。報酬はその日の朝食なんだからな」
「そんなことして。千歳さんにバレたらサラマンダー責めじゃすまないぞ」
「大丈夫、大丈夫。バレやしないって」
「ト、トトト……」
「あれ?どうしたんだこいつ」
 翼が不思議そうな顔で圭介を見る。
「美奈ちゃん!」
「分かってます。絵美さん!」
 突然、二人は立ち上がると、食堂の出口へと駆け出した。
「おい!どこ行くんだ?」
 直人が慌てて呼び止める。しかし、二人はそんなもの一切無視。さっさと食堂から姿を消した。
「どうしたってんだろうな。なあ、圭……」
「トカゲー!」
 圭介が食堂内で暴れ出したのは、その直後のことであった。

「だいたい、事情は飲み込めた」
 直人は憮然とした顔で切り出す。「まさかサラマンダー見て、暴れ出すとは思いもしなかったけど……」
「わ、私も驚いたのよ!」
 絵美は苦笑いする。「ねえ、美奈ちゃん」
「そうですね。早めに逃げて正解でした」
「早めにね……やっぱり知ってたのか」
 直人は白けた目を向けた。圭介が再度暴れてから二時間後の、絵美の部屋である。
「前から知ってたんなら、教えてくれよな」
「そんなこと言ったって。私達だって、完全に把握したのはあの時だもの」
「教える暇なんかありませんでした」
「だからって逃げなくてもいいだろう。あの後、翼と二人だけで、圭介を附与魔法学科の宿舎まで連れて行くの大変だったんだぞ」
「御苦労様。それで、その翼君は?」
「千歳さんの所にサラマンダーを返しに行ってるよ。あんなの持ってたら。いつ圭介に襲いかかられるか分かりやしない」
「自業自得です。朝食のメニューを確かめてから返しに行こうとするなんて、卑しいにも程があります」
「まあまあ。おかげで状況が早く飲み込むことができたんだし。しかしサラマンダー恐怖症とは……」
「正確にはトカゲ恐怖症でしょう?」
「この際どっちでもいいよ」
「でも、変ですね。トカゲが恐いって暴れているかと思えば、トカゲとはなにか?なんて訊いてくるし」
「ああ、それに関しては、附与魔法学科の奴から面白い話を訊いた。どうやら圭介の奴、サラマンダーの正体も知らないそうだ」
「サラマンダーの正体?」
「つまり、サラマンダーが火の精霊ということは知っているが、トカゲのような姿だということは知らないらしい」
「知らないって、そんな馬鹿な。今日だって散々見てるのに」
「見るとああやって暴れるんだそうだ。あいつが持っている教科書で、サラマンダーの写真が乗っているページは、全て塗りつぶされているんだとさ」
「要するに、サラマンダーを見て。それを確認する前に、見境が無くなるってこと?」
「そういうこと。面白い話だろう?」
「面白いのかな……」
「ちっとも面白くありません!」
 美奈子は激しくテーブルを叩く。「呑気に笑ってる場合じゃありませんよ。そんな危険人物を野放しにしていいんですか?」
「危険人物ってのは言い過ぎじゃないの?」
「甘いですよ絵美さん!」
「確かに美奈ちゃんの言う通り、俺も圭介は危険人物と言っていいと思う」
 直人がうなずきながら言う。「実際、圭介が暴れたせいで、附与魔法学科も結構な被害を受けてるらしいからな」
「それじゃ圭介君は、なにかしらの処分を受ける訳?」
「いや、それは無い」
「どうしてですか!」
「答えは簡単。あいつより危険人物と呼べる人間がいるからだ」
「他にも圭介君みたいな人がいるの?」
「いっぱいいるよ。タイプは色々だけど」
「それなら、全員処分するべきです」
「そんなこと言ってて、本当にいいのか?」
 直人が無気味な笑みで美奈子を見る。
「な、なんですか?私が危険人物だとでも言うんですか?」
「違うのか?」
「違います!」
「ほう、じゃあ聞くけど。先月、二階廊下の天井に大穴開けたの誰だったっけ?」
「えっ?」
「自習室の壁を破壊したのは?」
「そ、それは……」
「姉弟喧嘩で、図書室を半壊させたのは?」
「それって……」
 絵美は興味深げに訊いてくる。「もしかして。今日、食堂の床を焦がした人のこと?」
「そうそう、そんなこともあった」
 直人が意地悪そうな目を向ける。「寮に対する被害額で比べたら、彼女の方が圭介よりはるかに危険人物だと思うんだけど。誰だったかな?美奈ちゃん覚えてない?」
「えっと……その……」
 美奈子が言葉に詰まる。「それは……」
「それは?」
「それは……」
「絵美!」
 突然、勢い良くドアが開くと、勢いで直人を突き飛ばした。「直人いないか?直人」
「どうしたの翼君。そんなに慌てて」
「い、いや……その……たいしたことじゃねえんだけど。直人を探してて……」
「直人君ならそこにいるよ」
「あっ!直人!こんな大変な時に、呑気に寝てんなよ!」
「寝ているんじゃなくて、呻いているんじゃないの?」
 絵美が直人に変わって答える。
「呻いている?美奈子、またお前が……」
「お前がやったんだろうが!」
 直人は突然起き上がる。「お前が突然、ドアを開けるから……イタタ」
「気にしなくていいよ翼君。ドアの側に座っていた直人君が不運だったのよ」
「そ、それはないだろう……絵美ちゃん」
「なんだかよく分かんねえけど……と、とにかく大変なんだよ!」
「また、圭介君が暴れたの?」
「違う違う!そんなんじゃなくって……」
 翼が手をブンブンさせる。そして、その手に持っているのは……。
「翼君!そのサラマンダー……」
「えっ?ああ、これは……」
 翼は手の中でぐったりしているサラマンダーを見る。
「翼!」
「なんだよ……あれ?どうしたんだ美奈子。青ざめた顔して」
「そ、そんなのどうでもいいでしょう!」
「そういう言い方はねえだろう。せっかく弟が心配してやってんのに」
「あんたなんかに心配して貰いたくない!それよりなによそれ」
「だから、それを説明しようと……」
「説明なんかいいから、さっさと返してきなさいよ!」
「いちいちうるせえ女だな」
 翼はそう言うと、手に持っていたサラマンダーを放り投げた。「だったらお前が、それを返しに行けばいいだろ」
「なんで私があんたの代わりをしなくちゃならないのよ。自分でやったことくらい自分で始末できないの!」
「できねえとは言ってねえだろう!」
「実際できなかったんでしょう!直人さんに助けを求めるなんて、ああ情けない」
「助けて貰おうなんて思ってねえ!俺はただ直人に訊きたいことがあってだな……」
「それが助けを求めてるっていうのよ!直人さんに訊かないとなにもできないの?この脳無し男!」
「なんだと!もう一度言ってみろ」
「言ってやるわよ!脳無し男、脳無し男、脳無し男、脳無し男、脳無し男!」
「ご、五回も言ったな!」
「最初の合わせて六回よ!数ぐらいちゃんと数えろ脳無し男!」
「もう怒った。もう堪忍袋の尾が切れた。もう容赦しねえぞ!」
「フン!どう容赦しないのよ」
「これでも食らえ。ストーン・ブラ……」
「そっちが食らえ。ウィンド・カッ……」
「いい加減にしろ。ウォーター・ボール!」
 直人がいち早く魔法を発動させて二人の顔に水をぶち掛けた。
「つめたぁーい!」
「突然、なにすんだよ直人!」
「それはこっちのセリフだ。お前ら、少しは場所を選んでから姉弟喧嘩しろよな。ここは絵美ちゃんの部屋だぞ」
「だからなんだよ!喧嘩するのに場所なんか関係あるか!」
「関係あるの。お前らの姉弟喧嘩は普通じゃないんだから。それより翼、俺になにか用があったんじゃないのか?」
「そ、そうだ!こんなことしてる場合じゃねえんだ!」
「いったいどうしたってんだ」
「とにかく来てくれよ。ここじゃ説明しにくいんだ」
「分かったから腕を引っ張るな。……じゃあ絵美ちゃん。ちょっと翼に付き合ってくる」
 そう言うと、直人は翼を連れて部屋から出て行く。後には水浸しになった部屋に二人の女性が残った。
「あの……」
 美奈子が申し訳なさそうに、絵美に切り出した。「あの……怒ってます?」
 しかし、絵美の返事はない。急いで美奈子は続ける。
「怒ってますよね。直接ではないにしろ、部屋を水浸しにしたのは私達姉弟が原因なんですから……ごめんなさい!あいつと喧嘩を始めると、すぐカッとなっちゃうんです。これじゃ、圭介さんを危険人物なんて呼ぶ資格ないですね。とても許してくれるとは思えませんが、その……」
「……許す」
「えっ?」
「許す」
「あ、あの……」
「部屋中水浸しになったことも、水がかかってずぶ濡れになったこともみんな許す」
「絵美さん!」
 美奈子が顔を上げる。「そんな、簡単に許してくれるなんて、余りにも申し訳が……」
「じゃあ、許さない」
「……絵美さん?」
「そんなのどっちでもいい!」
「どっちでもって……」
「いいからこれとってよ!」
「これって……あっ!」
 美奈子は拍子抜けた顔をする。
「この頭に乗っている奴を早く……」
 絵美は震えながら、自分の頭の上に乗っているサラマンダーを指さす。「私、触れないのよ!お願い、なんでも言うこと聞くから……これとって!」
 絵美は悲痛な叫びを漏らしたのであった。

「目、覚めた?」
 絵美は真剣な顔つきで訊く。
「いいえ」
 美奈子は頭を横に振る。「ピクリとも動きません」
「やっぱり、死んじゃったんじゃないの?」
「死んではいませんよ」
 美奈子はテーブルの上で横たわっているサラマンダーを見る。「微かにお腹の辺りが動いてますから」
「そう……それは喜ぶべきことだ」
 絵美は小さくため息をついた。
 ちなみに絵美は今、自分の部屋でありながら、サラマンダーから離れた部屋の隅に座っている。圭介程ではないにしろ、絵美もトカゲは苦手なのだ。(サラマンダーはトカゲじゃないと言う人もいるだろうが、当人にとってはどっちでもいいことである)
「それにしても、翼と直人さん。どこに行っちゃったんですかね?」
「本当。早くそのサラマンダーを、引き取って貰いたいんだけど……ねえ美奈ちゃん」
「なんですか?」
「いっそ美奈ちゃんが、それ持って千歳さんの所に行っちゃえば?」
「それは駄目です。これはもともと翼が見つけて捕まえた物なんですから。手柄を横取りする訳には行きません」
「……結構、義理固いのね」
「そんなんじゃありませんよ」
 美奈子は頭を横に振る。「単に翼に借りを作りたくないだけです」
「別に良いんじゃない。姉弟なんだし」
「姉弟だからこそですよ」
「……そんなもんかな。姉弟って」
「私はそんなものだと思います……あっ!」
「どうしたの?」
「今、少しと動きましたよ。サラマンダー」
「本当?」
 絵美はそう言いながらも、決して美奈子の方には近づかない。
 そうしてる間にも、サラマンダーは少しづつ動きだし始める。手足をバタつかせ、体を起こし、前足で頭を押さえながら、頭を数回横に振る。そして、突然二本足で立つと、
「フーッ。まいったまいった」
 と、しゃべったのである。「まさか、あんなに乱暴に扱われるとはな。全く、もう少しやさしく精霊を扱って欲しいものだ」
 サラマンダーはそう言うと、辺りの雰囲気が違うことに気づく。
「あれ……ここは?見たことない所だな。この建物の中はほとんど見た……!」
 サラマンダーはぐるっと辺りを見る。そして、不意に美奈子と目が合った。
「しゃ……しゃべった」
 美奈子の言葉に、サラマンダーは慌てて口を押さえる。しかし、時すでに遅かった。
 一瞬、部屋の空気が凍りつく。
「……絵美さん。今の聞きましたよね?」
「うん……まあ一応」
「一応って……絵美さん!」
「ちょっと待って。美奈ちゃん、今の……」
「なんです?」
「美奈ちゃんの声じゃないよね」
「ふざけたこと言わないで下さい!」
「いや、その……一応の確認としてね。じゃあやっぱり、そのサラマンダーがしゃべったってことよね」
「そうみたいです」
「よし。確かめてみよう」
「確かめるって……どうするんです?」
「なにかしゃべるように頼んでみれば?」
「頼むと言われても……私、あまり精霊語は得意じゃないし」
「なに言ってんの。さっきそいつ、日本語しゃべってたじゃない」
「あ、そういえばそうですね」
 美奈子は納得した顔をする。「でもそれなら、絵美さんでも出来るじゃないですか」
「私は駄目」
 絵美は頭を横に振る。「私はこれ以上近づけないもの。コミニュケーションを大事にしないとね」
「……分かりました。じゃあ、私がやってみます」
 美奈子が諦め顔で、サラマンダーに顔を近づける。「えーと……こんにちは。私は竹原美奈子というものです。あなたの名前はなんですか?」
「……美奈ちゃん。なにやってんの?」
「なにって……始めにあいさつしておこうかと思いまして……」
「そんな調子でやってて、そのサラマンダーがしゃべると思う?」
「駄目ですか?」
「駄目じゃないかも知れないけど……そんなんじゃ、ものすごく時間かかると思う」
「じゃあ、どうすればいいんです?」
「サラマンダーがしゃべりやすい状況を作ってあげるとか」
「しゃべりやすい状況……ですか?」
「そう。例えば針を一本づつ体に刺すとか、逆さ吊りにして水槽に何度も浸すとか……」
「……それって拷問じゃありません?」
「でも、これが一番てっとり早いって」
「あの……コミニュケーションがどうとか言ってませんでした?」
「ま、まあ別にいいじゃない。拷問もコミュニケーションの一つ!」
「はあ……絵美さんがそう言うなら。でも、その前にもう一度だけ」
 美奈子はそう言うと、サラマンダーに顔を近づける。「つまり、そういうことになったんですけど……どうします?今、しゃべれば拷問受けずに済みますよ」
 しかし、サラマンダーは口を押さえたまましゃべろうとしない。
「拷問決定ね。美奈ちゃん水槽の用意」
「……仕方ありません」
 美奈子が立ち上がろうとしたその時、
「分かったしゃべるしゃべる。だから拷問はやめてくれ!」
 再び、サラマンダーが声を発した。
「絵美さん!」
「美奈ちゃん!」
『サラマンダーがしゃべった!』
「……そんな、二人してハモらなくても良いだろう」
「でも、それほど驚いたんですよ」
「本当にしゃべることが出来るとはね……」
「やっぱり。拷問が効きましたね」
「全く……一人が強行策に出た時に、もう一人が止めるかと思っておれば、二人とも簡単に精霊を虐待しようとしおって……精霊をなんだと思っておるんだ」
 サラマンダーはそう言うと、小さくため息をつく。それに対して二人の答え。
「やっぱり、下僕ですね」
「寮で飼ってるペットだと思ってたけど」
「……もういい。訊いた私が悪かった」
 サラマンダーはそう言うと、今度は大きくため息をついたのであった。

「ほら、あいつだよ」
 翼が物陰に隠れながら、精霊安置室の前に立つそれを、指さした。
「ふーむ……」
 直人も続いてそれを見る。「確かに見たこと無い奴だ。誰だろう?」
「直人も知らねえのか?」
「見たこと無い奴を知ってる訳ないだろう。だけど、おかしいな。寮の人間なら知らない訳無いんだが」
「じゃあ、部外者か」
「そこら辺は分からん……」
「なにやってんの?あんた達」
「わっ!」
 突然の背後からの声に、二人は飛び上がらんばかりに驚く。
「ち、千歳!」
「驚かさないでくれよ。千歳さん」
「あんたらが勝手に驚いたんでしょう。なにやってんのよ、こんな所で」
「いや、実は翼が……」
「そ、それより大変なんだよ」
 翼が千歳の腕を引っ張った。
「いったい、どうしたっていうのよ」
「いいから、見てみろよ。ほら、あそこ!」
「あそこって、精霊安置室じゃないの」
「そうじゃなくて、あの入り口の所にいる奴だよ!」
「……あれがどうかした?」
「なんか怪しくないか?」
「私はあんた達の方が、怪しく見えるけど」
「冗談言ってる場合じゃねえぜ。直人が言うには、どうやらあいつは寮の人間じゃないらしいんだぜ」
「まあ、確かにそうだけど……」
「だろ!そんな奴が、精霊安置室の入り口にいるなんて怪しすぎるぜ!もしかして泥棒なんじゃないのか?」
「なにを言い出すのかと思えば……」
 千歳が呆れた顔をする。「馬鹿も休み休み言いなさいよ。どこの世界に、ドアの前で立ってるだけの泥棒がいるってのよ」
「そりゃそうだけど……でも、怪しいじゃねえか」
「あんた達の方が、二倍も三倍も怪しい」
「千歳さんもしかして……」
 直人が訊いてくる。「あのドアの前にいる奴のこと、知ってるのか?」
「えっ?まあ、知ってるけど」
「本当か?」
「嘘ついてどうすんのよ」
「ああ、そうか。それで……何者なんだ?」
「何者って……もしかして、あんた達それを探りにきたの?」
「いや、探りにきた訳じゃ……」
「なんか怪しいな」
 千歳は二人を睨み付ける。「ま、教えてもいいけどね。別に隠すことでもないし……ちょうどいいわ。紹介してあげる」
 そう言うと、千歳は二人を精霊安置室の前に連れて行った。
「あなたか」
 それは千歳に気づくと、表情を変えずに言った。
「どう、調子は?」
「調子もなにもありません。こうして立ってるだけで、なんの調子が変わると言うのですか」
「ということは、私が行ってからここには誰も入らなかったのね」
「いえ、五人この部屋に入りました」
「五人?それで?」
「それだけです」
「それだけって……他には?」
「他に話すことなどありません」
「どんな人だったとか、覚えてないの?」
「そんなことまで命令された覚えはありません。それに人間の顔など全て同じで、一目見ただけでは、覚えられる訳がありませんよ」
「なるほど……」
 千歳は変に納得した表情を見せる。「これは少し、命令変更をしたほうが良さそうね」
「あの……千歳さん?」
「なに?直人」
「なにじゃなくって……」
「ああ、そうか。紹介するって言ったっけ」
 千歳は思い出したように言う。「簡単に紹介するわ。イフリートよ」
「イフリート?」
 直人は突然、驚きの声を上げた。「あの別名、炎の魔神って呼ばれてる?」
「そう。そのイフリートよ」
「ちょっと待って下さい」
 イフリートがそう言って、二人の会話に割り込んできた。「私の名はイフリートではありません。ちゃんとフレイという名が……」
「面倒くさい。イフリートでいいでしょう」
「しかしですね……」
「分かったわよ。イフリートのフレイよ。これでいいでしょう?」
「それでいいです」
「全く……召喚されたくせに、召喚主に口答えするんだから」
「当たり前です。私はあなたの召喚に同意した以上、あなたの言うことに協力しているだけで、別にあなたに服従しなければならない理由などないのですから」
「分かってるわよ」
「これがイフリートか……」
 直人が興味深げにフレイを見る。「教科書に名前は出ていたけど……千歳さん、よく召喚に成功したな」
「実力よ実力。これくらい出来なきゃ、召喚魔法の先生なんかやってられないわよ」
「……なるほど」
「おい、直人」
「ん?なんだ翼」
「結局、何者なんだよ?こいつ」
「イフリートのフレイだよ。千歳さんがたった今、紹介しただろ」
「だから、なんなんだよ。そのイフリートってのは」
 直人達の間に、一瞬沈黙が訪れる。
「まさかお前。イフリートを知らないとでも言うんじゃないだろうな」
「ああ、知らねえ」
「……翼。あんた、少しは勉強しなさいよ」
「なんだよ千歳まで。それに勉強って……」
「普通に精霊魔法学を勉強してれば、イフリートを知らない筈はないからよ」
「精霊魔法学……まさか、こいつ精霊か?」
「そう。しかも、高位の火精霊よ」
「なんだ、サラマンダーと同じか」
「違う!高位のって言ってるでしょう!」
「こういって、なんだ?」
「……あのねえ」
 千歳は呆れた顔をする。
「無理だよ、千歳さん」
 直人が諦め顔で言う。「イフリートも知らない奴が、高位の精霊を知ってる訳がない」
「だったら直人。あんたが説明しなさいよ」
「ここじゃ無理だよ。翼、帰ってからな」
「俺に分かるようにだぞ。できるか直人?」
「何を偉そうに。安心しろ。嫌だと言っても分かるまで教えてやるよ」
「なんかやだなあ……」
 翼は露骨に不安げな顔を見せる。
「で、なんでイフ……フレイをこんな所に立たせているんだ?」
「見張りのためよ」
「見張り?」
「あら?絵美ちゃんから聞いてなかった?」
「絵美ちゃんから?いやなにも……」
「まあ、いいわ。サラマンダーを何者かが逃がしているってことは話したわよね」
「俺は聞いてねえぞ」
「俺が後で話してやるから、少し黙っててくれ翼。千歳さん、続けて」
「それで絵美ちゃんと相談しているうちに、見張りを立てればという話になったのよ」
「で、このフレイが呼ばれた訳か」
「そういうこと」
「なるほど、精霊の見張りには高位の精霊を使うのが一番ってことか」
「まあ、それだけが理由と言う訳じゃないんだけどね」
「他の理由は?」
「二十四時間眠らず、隙がないこと。精霊には時の概念がないからね。力さえ使わなければ、何時間でも見張りができるわ。それになによりも……」
「なによりも?」
「お金が全く掛からないってこと」
「……なるほど」
「ま、そういう訳で、これからフレイにここを見張らせることになるけど……」
「別にいいんじゃない。何者かさえ分かってれば混乱も起きないだろうし」
「じゃあ、この件については寮長の許可が出たということで、終わりにして」
 千歳は一つ咳をする。「今度は、私があんた達に質問するわよ」
「質問?」
「たいした質問じゃないわよ。結局、あんた達。ここになにしに来た訳?」
「なにしにと言われても……」
「まさか、ついさっき召喚したばかりの、フレイの存在を知っていたとは思えないけど」
「俺は……」
 直人が答える。「精霊安置室に怪しい奴がいるって言われたから、確かめに来たんだけど……」
「誰に?」
「翼に」
「翼が?」
 千歳は翼に目を向けた。「翼、精霊安置室になんか用があったの?」
「へっ?用?」
 翼は拍子抜けした顔をする。「用……確かなにか用があったような……」
「なにすっとぼけてんだ。サラマンダーを返しに来たんだろう」
 直人が突っ込む。
「そうだ!サラマンダーを返しに来たんだ」
「サラマンダーって、最後の一匹の?」
 千歳の顔がパッと明るくなる。
「そうそれ、すごいだろう千歳。これで明日の朝食も二人前だぜ」
「分かった分かった。それで?」
「それでって?」
「それでサラマンダーはどうしたの」
「えっと……ちょっと待てよ」
 そう言いながら、翼は自分の体の中を探し始めた。「あれ……おかしいな……」
「どうした?」
「サラマンダーが無い」
 翼は呆然とした顔をした。「おかしいな。逃げられたのかな?さっきまで確かに持っていたのに……あっ!」
 翼は顔をハッとさせる。
「あったの?」
「いや、そうじゃなくって……」
「なに?」
「サラマンダー。勢いで、美奈子に押しつけちまったんだ。アハハ……」
 翼は言うと、軽く笑ったのであった。

「はい、お水です」
 そう言うと、美奈子は水の入ったコップをサラマンダーの前に置く。「こんなもの、なんにするんです?」
「特別変わったことをするつもりはない。ただ飲むだけだ。長い期間、檻の中に閉じ込められてたせいで、喉がカラカラだからな」
 そう言うと、サラマンダーは頭をもたげて水に口をつける。「……なんだこれは?随分とまずい水だな。混ざり物が多過ぎるぞ」
「しょうがないよ。水道水なんだから」
 離れた場所から絵美が答える。
「水道水?良く分からんが、ここには水道水と言うものしか無いのか?」
「お店で買えば、もう少しまともな水が手に入ると思うけど……今すぐは無理だよ」
「ふむ、要求しといて贅沢も言えんか。仕方ない、これで我慢しよう」
 そう言うと、サラマンダーは再び水を飲み始める。
「……絵美さん」
「どしたの美奈ちゃん?惚けた顔をして」
「せめて呆然とした顔と言って下さい。それよりも信じられます?この光景」
「この光景?」
「これですよ!これ!サラマンダーが水を飲んでいるんですよ!」
「うん……まあ、その通りの光景だけど。なにか不都合があるの?」
「不都合って……」
 美奈子は渋い顔をする。「不都合と言うより、不自然なんですよ」
「不自然?」
「そう、不自然なんです。火の精霊が水の精霊を糧にしているんですよ」
「火の精霊が水の……どういうこと?」
「例えるなら、火に水を掛けたら、消えるどころか逆に強く燃え出すような物です」
「なるほど……不自然だ」
「普通、サラマンダーにこんなことさせたら相互干渉で消滅するはずなのに……」
「ふむ。お主の言ってることは正しいな」
 サラマンダーがコップから顔を上げる。
「サラマンダー……さん」
「私をサラマンダーと呼ぶのは、やめて欲しいな」
「何故ですか?」
「サラマンダーは精霊の種名であって、私個人の名前ではないからだ」
「名前?精霊にも名前があるの?」
 絵美が興味深げに訊いてくる。「高位の精霊にはあるのだ。実際、同じ精霊同士が話すとき不便だしな」
「で、結局なんて呼べばいいの?」
「アクアと呼んでくれ。それが私の名だ」
「それじゃアクアさん」
「それもちょっと……呼び捨てでいい」
「……アクア、先程のことなんですけど」
「ああ、そうだな。なぜ私が水を飲んでも平気なのかということだな」
「そうです」
「なにも不思議なことではない。私はサラマンダーではないのだからな」
「……どこから見ても、サラマンダーに見えますけど」
「外見だけだ。中身は違う。そもそも、私は火の精霊ではない」
「火の精霊でなければ何の精霊なの?」
 絵美が折り返すように訊く。
「水の精霊だ」
「なるほど、水の精霊か。水の精霊なら水を飲んでも不自然じゃないね……あれ、どしたの美奈ちゃん?今度は頭を抱えちゃって」
「頭がこんがらがってきちゃって……」
「へっ?こんがらがる?」
「まあ、それも無理はないな。どっちかと言うと、素直に納得しているお主の方が変わっているぞ」
「なんで?だって、アクアが水の精霊だって言っただけじゃないの?」
「確かに私が言ったのはそれだけだが、それはものすごく不自然なことなのだ」
「矛盾してるってこと?」
「その通り」
「つまり、美奈ちゃんはその矛盾に苦しんでいると……」
「たぶんそうだろう。しかし、お主は簡単に納得している。何故だ?」
「何故もなにも……」
 絵美は苦笑いする。「それは私が、その矛盾どころか、精霊に関する基礎知識を知らないせいだよ」
「なんだ知らなかったのか」
「精霊の存在も、昨日知ったばかりだもの」
「なに?昨日知ったばかりなのか!」
「そう、昨日知ったばかり」
「なるほど、今の私が最初の知識なら、矛盾に苦しむ筈はない」
「その通り。なんせアクア自体が私の精霊の常識だもの」
「私が精霊の常識?それは面白い冗談だ」
「面白い冗談?そうかも知んない。でも私にとっては、その冗談が常識」
「そうか。それでは仕方がないな」
「そうそう。仕方ない」
「仕方なくありません!」
 美奈子が勢い良くテーブルを叩く。「ちょっと静かにしてて下さい!考えがまとまらないじゃないですか!
 ……えっと、トカゲ型の精霊は火精霊であるサラマンダー以外、他の精霊には見られないこと。そしてなによりも、この部屋の中が火の精霊力で充満していることから、この精霊は精霊魔法学上は完全にサラマンダーに間違いない。
 しかしながら、水の精霊を糧にしていること、そして名前を持っていたり、人の言葉を理解していることからして、かなり高位の水精霊ということも間違いない訳で……ああ、全然分からない!」
「とまあ、精霊に関する知識を身に付けている者はあのように悩む訳だ」
「なるほど……専門用語が飛び交ってる」
「嬢ちゃん、嬢ちゃん」
「なんですか?」
 美奈子は迷惑顔でアクアを睨み付ける。
「そう睨むな。水精霊である私が、何故サラマンダーの体なのかを話してやるから」
「私に分かるようにですよ。できるんですかアクア?」
「嬢ちゃんが頭を軟らかくすれば、簡単に理解できることだ。安心しろ」
「……分かりました。聞きましょう。でもその前に」
「なんだ?」
「その呼び方止めてくれませんか?私にも、ちゃんと名前があるんですから」
 美奈子は不満気に言ったのだった。

「ご覧の通り、私は外見上はサラマンダーという火精霊の体を持っている訳だが……」
「中身は水の精霊なのよね」
 絵美が笑って答える。
「それじゃさっきと同じです」
 美奈子は渋い顔をする。
「まあ、結論に急ぐな。結局、美奈子は私の体を異様だと言うのだな?」
「……そうです」
「なんで異様だと思うんだ」
「えっ?」
「ちなみに、絵美は異様だと思わなかったから素直に納得した訳だ」
「……そうなんですか?」
「うーん……私はサラマンダーみたいな水の精霊もいると思ってたから、納得してた訳で……話を聞くと、私も納得できない」
「だそうです」
「裏切り者め……まあいい。では、二人に訊くことにしよう」
「つまり……」
 絵美が切り出す。「美奈ちゃんは、アクアの体が二つの精霊の性質を持っていたから、異様だと言いたいんだよね」
「そうです」
「私は精霊のことよく知らないから、違うかも知れないけど……」
 絵美は美奈子に顔を向ける。「外側と内側のシステムが違う生物だってことでしょ」
「例えば、外見は魚なのに、体を開いたら人間の肺や胃が出てきたみたいなものです」
「……美奈ちゃん。そういう気持ち悪い例えはやめてね」
「気持ち悪かったですか?」
「美奈子の例え話は置いといて……二人の言い分は正しいな。確かにその理屈は、精霊の体から見てもありえない」
 アクアは小さく何度もうなずいた。「しかし、その理屈は今の私の状態を否定する理屈にはならない」
「どういうことです?」
「まあ、その前に私の質問に答えろ。その理屈で、人間は魚の性質を持つことはできないと言えるか?」
「当たり前です。人間がえら呼吸する筈無いじゃないですか」
「そうではない。人間の体のシステムを持つ者が、魚の性質を持つことができないのかという意味だ」
「同じことです」
「ちょっと待って」
 絵美が間に入る。「それはつまり、人間の体のシステムを持ちながら、水の中に何時間もいられるのかってこと?」
「そうだ」
「なにか違うんですか?」
「アクアの言い方からすると、それは可能なことだけど。ただ……」
「ただ?」
「あまりに突飛な答えだから」
「まあ答えてみろ」
「つまり潜水服を着るってこと。それなら体は人間だけど、魚のように長時間水の中にいられる訳で……違うかな」
「絵美さん。それはありえませんよ」
「やっぱりそう?私もそうかなっと思ったんだ。でも、一応可能性として……」
「確かに、絵美さんの答えは正しいと思います。だけどそれはこの世界だけの話です。絵美さんは知らないと思いますが、精霊界……つまり、アクアの住んでいる世界は精霊以外になにも存在していない世界なんです。もちろん潜水服みたいな、自分の体に被せる物も存在してないんです」
「存在してるよ」
「ほらアクアも存在してると……えっ!」
 美奈子は驚きの声を上げた。「存在してるんですか?」
「正確には違うがな。その理屈を可能にする物はなくても、方法はあるということだ」
「方法って……」
「美奈子がよく知ってる方法。精霊魔法だ」
「精霊魔法?」
 美奈子は呆然とした顔をする。「そんな魔法見たことありませんけど」
「簡単な魔法だ。しかし、人間にはこんな効果を見ることができないから、見たことが無いのだろう。確か人間が使うと、保護系統の魔法になる筈だが」
「それってどんな魔法なの?」
 絵美は顔をしかめた。
「美奈子は知ってるだろう」
「ええ、まあ。体全体を精霊で包み込んで精霊力を中和させる、俗にエレメンタルバリアと呼ばれる魔法です」
「その通り。つまり私は、魔法によってサラマンダーという潜水服で体を包み込んだ状態になっているということだ」
「なるほど、体全体にサラマンダーがねえ。確かそんな光景をどこかで……」
 絵美は考え込むが、しばらくすると、突然顔を渋くさせた。「……思い出した。もしかして、あれのこと?美奈ちゃん」
「えっ?あれってなんです?」
「あれよあれ。千歳さんのお仕置で……」
「サラマンダー責めのことですか」
 美奈子は拍子抜けした顔をする。そして次の瞬間、美奈子は頭を勢い良く振る。「ち、違いますよ。あれは私の言ってる魔法じゃありません。保護系統の魔法は確かに精霊をまとわりつかせる魔法ですが、実際に精霊は目に見えませんし、もちろん肌に感じることもないんです」
「でも、それならアクアの体がサラマンダーに見えるのはおかしいんじゃない?」
「私もそう思います。アクアがその魔法にかかってたとしても、サラマンダーは見えないんですから、アクアの本体が見える筈です」
「それは、この世界の精霊魔法での話。私の場合は状況が少し違うのだ」
「どう違うんですか?」
「前者は人間という物質に、精霊界にいる精霊が包み込んでいる。この場合、精霊は人間の目に見えないから外見は変わらないように見える。つまり、美奈子が言っている保護系統の魔法がかかった状態だ。
 後者の時も理屈は同じなのだが、私がその状態でいる時、周りのサラマンダーが召喚されたため、私もサラマンダーに包まれたまま一緒に物質界へと召喚されてしまったのだ」
「つまり、今のアクアの体は、召喚された保護系統魔法に使用されたサラマンダーだという訳ですか」
「簡単にいうと、サラマンダーの体にとり憑いたまま抜けられなくなった幽霊みたいなもんってことね」
「……誤解を招きそうな言い方だが、そのようなものだ」
 アクアは不満気ながらも、納得した顔を見せる。「まあ、とり憑いたという表現は的を得ているな。実際、この体のおかげで本来の精霊力は使えなくなるし、サラマンダーと判断されて檻に閉じ込められるし、その結果水は一滴も飲ませてもらえなかったし……我ながら、良く今まで消滅しなかったと思うよ」
「それなら、今みたく正体を明かせば良かったじゃない」
「そんなことできるか。たちまち珍獣扱いされた上、色々調べられるのがオチだ」
「じゃあどうして、私達には正体を明かしたの?」
「……明かさなかったら拷問掛けると言ったのはどこのどいつだ」
「まあ、昔のことは早く忘れて……」
「つい数分前の出来事だ」
「昔は昔よ。そんな昔のこと覚えているの、私達くらいだよ」
「私達しか知らないんじゃないんですか?」
「まあ、そういう言い方もあるけど……美奈ちゃん。どっちの味方してるの?」
「えっ?それはその……」
「……もういい。不毛な会話だ。とにかくそういう訳で、私がしゃべれることを内緒にしてほしいのだが……」
「分かった」
「誰にも話しません」
「そう言ってもらうと助かる。私がサラマンダーだと思われてる間は、ここから脱出しやすいからな」
「脱出って、どこから?」
「この世界からだ。精霊界に帰れば、この奇妙な状態から開放されるのだ」
「ああ、なるほどね。精霊界に帰るために脱出を……」
 絵美の顔色が変わる。「脱出って……どこから」
「だから、この世界から……」
「そうじゃなくって!もっと細かい所!」
「細かい?どう言えばいいのだ?」
「最初いた所!」
「最初いた所は檻の中だが」
「サラマンダーの檻よね」
「そうだ。毎回捕まってはあそこの檻に詰め込まれてたからな」
「確か、鍵ついてるよね。その檻」
「まあな。最近は掛けてないが、昔は何重にも掛けてあったぞ」
「それを開けたりなんかした?」
「なにを当たり前のことを。鍵を開けなければ外に出られんだろうが」
「やっぱり……」
 絵美は呆然とした顔をする。「そうか、アクアが犯人だったのか」
「なんのことだ?」
「なんの話です?」
 アクアと美奈子は不思議そうな顔で絵美を見たのであった。

「はい、これね」
 美奈子はそう言うと、サラマンダーを翼に返す。「今度はちゃんと千歳さんの所に渡してきなさいよ」
「言われるまでもない」
 翼は自信ありげに答える。「大丈夫、俺を信用しろ」
「そういうことは、ちゃんと仕事をこなす人が言うものよ。だいたい、あんたの……」
「美奈ちゃん」
 部屋の奥から絵美の声がする。
「……分かってます。とにかく、少しは信用できる行動を取りなさいよ」
 美奈子はそう言うと、翼が取り付く間もなくドアを閉めてしまった。
「……なんだ美奈子の奴。言うだけ言って絵美の部屋に逃げやがって。絵美も絵美だ。いるんだったら、自分が出てくりゃいいじゃねえか」
 翼はしばらく悪態を吐いていたが、ドアが相手ではむなしいことに気づく。「ま、いいか。とにかく、こいつを千歳の所に持ってかねえとな」
 翼はグッタリとしているサラマンダーを胸ポケットに押し込むと、再び精霊安置室へと向かったのであった。

「どうやら、行ったみたいです」
 美奈子はドアに顔をくっつけたまま、絵美に伝える。絵美はそれを聞いて、
「そう。これで私も一安心」
 ほっと胸を撫で下ろした。「これで夜まではトカゲに怯える必要も無いわ」
「アクアはトカゲじゃありませんよ」
「関係ないよ。アクアがどんな精霊であろうとも、外見はトカゲと同じなんだから」
「それはそうですけど……」
「それで、どうするの?美奈ちゃん」
「えっ?なにがですか?」
「今晩、魔法陣にアクアを連れていく時のこと。美奈ちゃんも来るの?」
「もちろん行きますよ。提案したのは私なんですから」
「まあ、美奈ちゃんがいてくれれば、魔法陣のある場所も知ってるし、確かにやりやすいんだけど……見つかったらここを辞めさせられるかも知れないよ」
「そんな大げさな。アクアを精霊界に帰すだけじゃないですか」
「でも、アクアは普通の精霊じゃないから。それだけのことがすんなり通るかどうか」
「バレなければいいんですよ」
「まあ、結局はそうなんだけど……」
「それよりも心配なのは翼です。あいつがちゃんと千歳さんの所にアクアを届けてくれればいいんですけど……」
 美奈子は小さなため息を吐く。「やっぱり翼に渡す前に、アクアを精霊界に帰しちゃった方が良かったんじゃないんですか?」
「アクアと話し合った結果でしょ。みんなが寝静まった夜中、しかも一通りサラマンダー騒動が決着させてからの方が行動を起こしやすいって。それに今、アクアを帰しちゃったら、翼君や千歳さんに何て言えばいいの」
「それは……」
「私は言えないよ。千歳さんに一度捕まえたサラマンダーを逃がしちゃったなんて」
「怒りますかね。千歳さん」
「分からない。でも、もし怒らせたら……」
「サラマンダー責めですね」
「そう、それが一番嫌」
「……嫌ですね」
「だからといって、アクアはアクアで自分に協力しなければ、今度脱走した時、私の顔に張り付いてやるなんて脅してくるし……」
「板挟み状態ですね……」
「その通り。……全く、こんなことになるんなら、強引にアクアをしゃべらせるんじゃなかったな」
「過ぎてしまったことです。諦めましょう」
 美奈子はそう言うものの、なにやら楽しげな表情を絵美に向けていたのであった。

「精霊感知能力」
 千歳はハッとした顔でつぶやいた。「そう言えば、フレイは精霊感知能力があったわ」
 そう言うと、千歳はフレイを見る。
「あったわよね?フレイ!」
「確かにあります」
 フレイは無表情に答える。「それがどうかしましたか?」
「……まあ、フレイが驚かないのも無理ないわね。高位精霊は持ってて当たり前の能力だもの」
「何故、驚く必要があるのです?」
「精霊感知能力を持ってる精霊が少ないからに決まってるでしょう。それより、持ってるのね?」
「二度も言う気はありません」
「だったら話は早い。早速……」
「なんだ、その精霊感知能力ってのは」
 突然直人が、千歳のセリフを止めるように訊いてくる。
「……なによ?直人、まだいたの?」
 千歳は直人に不満気な顔を向ける。「すっかり存在を忘れてたわ」
「あのなあ……翼が戻ってくるまでここにいろって言ったのは千歳さんだろ」
「まあ、そうなんだけど……」
 千歳は軽く頭を掻く。「なんせ翼のことだからこうでもしないと、戻ってこないかもしれないからね。ま、少し我慢しててね」
「それは分かってる」
「分かってるなら黙ってなさい。それでフレイ、精霊感知能力を……」
「だから、ちょっと待てよ」
「なんなのよいったい」
 千歳は苛立ち気に答える。
「さっきから訊いてるだろう。なんだよ精霊感知能力っていうのは」
「なんで直人に説明する必要があるのよ」
「説明してくれたっていいだろう」
「説明聞いてどうすんのよ?」
「別にどうもしないけど……ただ、こうやってボーッとして待ってるのも暇だし」
「ボーッとね……分かったわ」
 千歳は小さく息を吐いた。「精霊感知能力ってのは文字通り精霊の存在を感知する能力のことよ。例えば、この精霊安置室にどんな精霊が何匹いるかを、直に見なくても即座に分かるってこと」
「なるほど、便利な能力だな」
「便利な能力なのよ。それでね、フレイ。その能力で、精霊安置室にいる精霊、特にサラマンダーを見張ってて欲しいんだけど……」
 千歳がフレイに提案する。しかし、フレイは表情を変えずに、
「あなたは私を馬鹿にしてますね」
 と、言った。
「別に馬鹿になんかしてないわよ」
「いいえ、馬鹿にしてます。だいたいあなたは、私をなんだと思ってるのですか?」
「なにって……」
 千歳は、突然のフレイからの問い掛けに戸惑う。「高位精霊でしょ?火の……」
「そうです。その火の高位精霊である私が、精霊感知能力などというものを意識的に使えると思ってるのですか?」
「えっ?じゃあ……」
「当たり前です」
 フレイは胸を張って答える。「したくなくても、それぐらい無意識に使っています。私をあまり馬鹿にしないで下さい」
「……なんだ。最初から使ってた訳ね」
 千歳は拍子抜けた顔をする。「だったら、それも含めて、ちゃんと報告してよ。人の顔よりは区別できるでしょ?」
「それはそうなのですが……おやっ?」
「どうしたの?」
「こちらに精霊が近づいてきますよ」
「精霊が?」
 千歳が拍子抜けた顔をする。
「サラマンダーだろ。翼がサラマンダーを持ってきたんだ」
 直人がそれに答えるように言った。
「ああ、そうね。じゃあ、これで全部回収できたってことね。後は二度と逃がさないように、フレイに見張っててもらえば……」
「違いますね。これはサラマンダーの気ではありません」
「違うって……フレイ」
 千歳がなにか言いかけたが、それを遮るように翼が歩いてきた。
「おーい。持ってきたぞ千歳!」
 そう言って、翼はサラマンダーを胸ポケットから取り出した。「ほら、最後のサラマンダーだ。これで明日の朝食は……」
「分かってるわよ。おばちゃんに二人前頼んでおくわ」
 そう言って、千歳はサラマンダーを受け取った。「……サラマンダーよね。やっぱり」
「なんのことだ?」
 翼は首を傾げる。
「なんでもないわよ」
 千歳はフレイを見る。「フレイ、あんたもふざけたこと言わないでよね」
「あなたこそ、まじめにそんなこと言っているのですか?」
「どういう意味よ」
「それはサラマンダーではありませんよ」
「へっ?」
「正確には、サラマンダーの殻を被った、水精霊です」
「なに訳の分かんないことを……」
「高位の水精霊。クラーケンって所ですね。人間には分からないようですが……」
 フレイは淡々と話す。「そして、この気。私は知ってますよ」
「知ってるって……」
 千歳がサラマンダーを見る。すると、
「もしや、お主……フレイか?」
 突然、サラマンダーが声を漏らす。
「わっ!しゃ、しゃべった!」
 千歳が驚いた声を上げるが、サラマンダーはそれを無視してしゃべり続ける。
「まさか、こんな所でお主と会うとは……」
「私も驚きました。どこへ消えたのかと思ってたら、こんな所にいたのですね」
「ま……まあ、色々あってな」
「いくら探しても見つからない訳です。物質界に召還された上に、そのような奇妙な格好をしているのですから」
「これは偶然に……」
「あなたの話を聞く気はありません」
 フレイはそう言うと、手の平から火の玉を生み出す。「もう逃がしはしませんよ。早速殺してあげましょう。水精霊アクア!」
「まずい!」
 アクアが叫ぶと同時に、フレイは火の玉を放ち、爆発を起こす。だが間一髪。アクアは翼の頭の上へと飛び移っていた。
「どうやら、外したようですね。しかし今度のはどうでしょう?」
 フレイは翼の方を睨み付けながら、火の玉を生み出す。
「第二弾が来る。逃げろ!」
 翼の頭上で、アクアが叫ぶ。
「逃げるって……どこへ?」
 翼が反射的に答える。
「どこでもいい!壁になりそうな……とりあえず、あの角だ!」
「わ、分かった」
 翼が走り出す。次の瞬間、翼の背後で爆発が起こり、爆風に吹き飛ばされる。「あたた……」
「痛がってる場合ではない。早く、遠くに逃げろ!焼き殺されるぞ」
「お、おう」
 そう返事をすると、翼はアクアを頭に乗せたまま、あてなく逃げ出したのであった。
「……ほう。人間を利用するとは。まあ、あの姿ではそう遠くには逃げられませんね。じっくり追いつめてあげましょう。そしてこの手で確実に殺してあげます」
 フレイはそう言うと、アクアを追おうとする。しかし、それを止める者がいた。
「ちょっと、待ちなさいよ」
 たちこめる煙の中から、千歳の声がする。
「おや、無事でしたか」
「人にファイアー・ボールをぶつけといて、無事でしたかとは随分な言い方ね」
 全身黒焦げになりながら、千歳が現れる。
「ゴホゴホッ……突然なんてことするんだ」
 直人も同様である。「全く、サラマンダー責めをされるは、雷落とされるは、火の玉ぶつけられるは……散々な日だな今日は」
「なるほど、魔法耐性ができているということですか」
「そんなことはどうでもいいわ。それより説明してもらおうかしら?」
「なんのことです?」
「とぼけるんじゃないわよ!なんで突然、ファイアー・ボールを放ったの?ううん、それよりなに?あのサラマンダーは!突然、しゃべりだすし、分かるように説明しなさい!」
「説明してもいいですけど、アクアを殺してからじゃ駄目ですか?」
「駄目!今よ。それに殺すのも駄目。しゃべるサラマンダーなんて珍しい試験体を、殺されてたまるもんですか」
「あれはサラマンダーじゃありませんよ」
「それも含めて、説明しなさい。話すまでここから離れることは許さないからね。これは召還主としての命令よ!」
「困りましたね。力の差があるとは言え、この世界では召還主の命令は絶対ですからね。仕方ありません」
 そう言うと、フレイは自分の右腕をもぎ取る。すると右腕は小さな火の鳥へと変化して行った。「今のアクアなら、この程度で十分殺すことができます」
 そう言った瞬間、火の鳥はアクアを追うべく飛んで行った。
「私の意志はここから離れていません。これで文句ありませんね」
「……あくまで逆らうつもりね。分かった。直人、あの鳥を追いかけなさい」
「でも、千歳さん……」
「私はフレイが契約違反を起こさないようにここで見張ってる。直人は火の鳥より先に、サラマンダーを捕まえてきてちょうだい」
「わ、分かった。任せとけ!」
 そう言うと、直人は火の鳥を追いかけるべく走り出したのであった。
「さてと、後はサラマンダーが帰ってくるのを待つだけね」
「帰ってくる前に、私の右腕がアクアを食い殺してますよ」
「それはどうかしら。あまり直人を甘く見ないことね。それより……」
 千歳はフレイを睨みつける。「その前に、あんたの話を聞かせてもらおうかしら?」

「わっ!なんだありゃ?」
 翼が驚きの声を上げる。「変な鳥が追ってきたぞ!」
「鳥に見えるが、あれはフレイの右腕だ」
 アクアが翼の頭上で説明する。「おかしいな。なんで右腕だけ……」
「そんなことどうでもいいだろう!」
「まあ、確かにどうでもいいことなのだが……おい!」
「なんだ?」
「前見ろ、前!」
「えっ?ま、前?」
 そう言うと、翼は前を見る。するとT字路の壁が目の前に迫っていた。
「わっ!わわわ……」
 翼は慌ててブレーキをかける。「ふーっ。危うくぶつかるところだった」
「落ち着いてる場合か!」
「そ、そうだ!えーと、右に行こうかそれとも左……」
「そんな迷ってる暇は……伏せろ!」
「伏せろ?」
 翼は言われたままにする。次の瞬間、火の鳥が猛スピードで壁に突っ込み、翼の頭があった辺りの壁に大穴を開けた。
「す……すげえ……」
「感心している場合か!もたもたしてたら、今度はお主の頭がこうなるんだぞ!」
「それはやだな……」
「いやなら逃げろ!」
「でも、どっちに……」
「どっちでもいい!」
「じゃあ、右だ」
 再び翼が走り出す。少し遅れて、火の鳥が壁から飛び出してきた。
「……丈夫な奴」
「いいからお主は前見て走れ!危ないぞ!」
「分かってるよ。でもよ、このまま逃げてるだけじゃ……」
「それは確かにそうだが……」
「ようし、ここは俺の魔法で反撃して……」
「やめろ。無駄なことだ」
「無駄かどうかは……」
 翼は指を忙しく動かす。「やってみなけりゃ分からねえぜ!ストーン・ブラスト!」
 次の瞬間、無数の石が火の鳥に向かって打ち出された。しかし、それらが全て火の鳥に当たる寸前に消滅する。
「ありゃ?いったいどうなって……」
「惚けとる暇は……」
 アクアが叫んだ瞬間、火の鳥が翼達の脇を擦り抜けた。「どうやら、今の魔法で奴の軌道だけは変えたみたいだな。とにかく奴が反転する前に……おい!お主!どうした?」
「どうしたもこうしたも、なんだよあれは!俺の魔法が全く効いてねえじゃねえか!」
「だから無駄だと言ったであろうが。奴は右腕だけとはいえ、火の上位精霊なのだぞ。非干渉である土精霊の魔法が効く訳がない」
「じゃあ、何精霊ならいいんだよ!」
「水だ。相互干渉にある水精霊なら、なんとかダメージを与えられる」
「そんなの俺が唱えられるかよ!」
「だから、とりあえず逃げろと言っておるのだ。お主、少しは状況判断を……」
「分かったよ。逃げりゃいいんだろ」
 翼は渋々言いながらも、アクアの言う通りにした。「でも、随分動きの速い鳥みたいだし、このまま逃げてても、すぐに追いつかれちまうぜ」
「確かにお主の言う通り。フレイが精霊感知能力を持っている以上、このまま逃げ隠れしていても意味が無いな。さてどうする?」
「俺が訊いてるんだ!」
「うーむ。逃げても駄目。隠れても駄目。ましてや説得の効く相手でもない」
「どうしようもねえじゃねえか」
「そう。どうしようもない。仕方ない。ここはやはり覚悟を決めるしかないな」
「なんだよ覚悟って?」
「戦う覚悟だ」
「戦うって……てめえ!さっき戦っても無駄だって言ったのはどこのどいつだ!」
「私は言った覚えはないぞ。私はお主が魔法を使うのが無駄だと言ったのだ」
「同じことだ!」
「まあ少し落ち着け」
 アクアは宥めるように言う。「何も、魔法を唱えるだけが戦う方法ではない。確かこの建物に、武器が置いてある部屋があったと思うのだが」
「武器?そんなのあったか?」
「東の方だ」
「東?ああそう言えば、附与魔法学科の奴らが使ってる自主究室で見かけたような……でも、なんでそんなこと知ってんだお前」
「そんなことはどうでもいい。とにかく今はそこに向かえ!」
「向かってどうすんだよ?」
「武器を調達するのだ」
「調達してどうすんだ?」
「右腕と戦うのだ」
「右腕?」
「今、追ってきている鳥のことだ」
「誰が?」
「お主がだ」
「お主って誰だ?」
「お主、名前は?」
「俺か?俺は翼だ!」
「では翼だ」
「俺が?俺、武器なんか使ったことねえぜ」
「大丈夫だ。なんとかなる」
「なんとかって……あのなあ」
「ぐちぐち文句を言ってる場合か。今のお主にはそれしか取るべき道はないのだぞ!」
「それしかない……」
「そうだ。それしかない!」
「それって……」
「なんだ?」
「宿命って奴か?」
「へっ?」
「宿命なんだろう?」
「ま、まあ宿命とも言えなくもないが……」
「宿命か……カッコイイ響きだな」
「おい……翼?」
「分かった。武器を取りに行こう!」
 そう言うと、翼は血気盛んに武器がある自主研究室へと足を向けたのであった。「しょうがねえよな。宿命なんだから。いっちょ武器でも振り回してみっか」

「どうだ?」
 彼が真剣な顔で訊いてくる。
「大丈夫。安定してるわ」
 机の上に置いてある剣に、手をかざしながら彼女が答えた。今、自主研究室の一室であるこの部屋では、数人の寮生が実験を行なっているのである。
「このまま行けば、とりあえず完成ね」
「さて、結果はどうでるかな」
「成功に決まってる。今までの実験の中では一番安定した経過を見せてるんだからな」
「やっぱりアルミにして正解だったのかな」
「というより、アルミしか無かったんだが」
「そうよね。もう、アルミぐらいしか手に入る材料が無かったのよね」
「金とか銀もやってみたかったけどな」
「ダイヤとかでやってみたかったわ」
「無理無理。そんなのここじゃ一生無理よ」
「貧乏だもんな。この学校」
「貧乏は嫌よね。材料集めるのに、おいはぎみたいなこともしてたものね」
「みんなから白い目で見られてるうちは良かったけど、最近は恐れられてるし……」
「みんな貧乏が悪いのよ」
「そうそう、みんな貧乏が……あら?」
「どうした?」
「剣が赤色に変化してきたわ」
「失敗したのか?」
「分からない。付与された精霊は相変わらず安定しているけど……」
「うーむ。どうなったのかな……」
「どうする?」
「どうするもこうするも……とりあえず完成させてみないと」
「そうだな……」
 そこにいた全員が、剣の変化をじっと見続けていると……
「邪魔するぜ!」
 突然、けたたましい声がする。そしてバンッと音を建てて、ドアが勢い良く開いた。
「わりいが、武器を貸してくれ」
 息を荒ただせて、翼が言う。しかし、そんな派手な登場にも係わらず、誰も翼の方を見ようとはしなかった。
「あの……武器を貸してもらいてえんだが」
 しかし、誰も応対しない。不思議に思った翼は、彼らが集まっている所に向かった。
「なにやって……あれ?なんだこの剣」
 そう言って、翼は机の上にある剣に触ろうと……
『触るな!』
 突然、そこにいた全員が怒鳴る。慌てて、翼は手を引っ込めた。
「な、なんだよ。ちょっと触るぐらい、いいじゃねえか」
「馬鹿野郎!儀式が行なわれている間に触ったら、精霊が暴走するだろ!」
「暴走って?」
「制御が効かなくなって力を開放する……なんだお前は?いつ、この部屋に入ってきた」
「いつって、さっきだよ。ちゃんと邪魔するぜって言っただろ」
「そんなの聞いた覚えないぞ」
「ちゃんと言った」
「聞いてない」
「言ったったら言った!」
「聞いてないったら聞いてない!」
「言ったったら言ったったら……」
「そんなことしておる場合ではない!早くしないと奴が追いついてくるぞ」
「なんだ?このサラマンダーは生意気にしゃべりやがって」
 言われて、アクアは慌てて口をつぐむ。
「とにかく、今は実験中だ。用が無いなら出ていってもらおうか」
「用ならさっきから言ってるだろう。武器を貸して欲しいんだよ」
「素性の分からん奴に武器は貸せんな。貸して欲しいなら名を名乗れ」
「創作魔法学科の竹原翼だ!」
「竹原?どこかで聞いた名だな」
「あっ」
 突然、後ろの女性が声を上げる。「あなた創作の爆弾小僧ね!」
「ば……爆弾?」
 翼は顔をムッとさせる。
「あーっ。あいつか!いつも、姉弟喧嘩で寮を破壊している双子の姉弟……」
「悪名高い、創作の風土爆弾の弟の方よ」
「お主、とんでもない奴だったんだな」
 アクアが小声で言う。
「ほっとけ!」
「で、その弟がなんで武器なんか貸して欲しいんだ?姉ちゃんでも殺るのか?」
「ふざけたことぬかすんじゃねえ!あいつが武器なんかで殺れる奴か」
「じゃあ、なんに使うんだ」
「それは……」
「来た!伏せろ!」
 慌てて翼が頭を下げる。次の瞬間、火の鳥がドアを突き破って入ってきた。そのまま火の鳥は外に出ていってしまう。
「な、なんだ?今のは?」
「なんでもいいだろう!とにかく武器を貸せよ!」
「馬鹿野郎!今は実験中なんだぞ!姉弟喧嘩なら他でやれ!」
「姉弟喧嘩じゃ……わっ!戻って来た!」
 再び翼が頭を下げる。火の鳥は建物の奥へと飛んで行った。「もうなんでもいい!とにかく武器を貸せ!」
「そこの箱にいっぱいあるから、好きなの持って行け!」
「この箱か?でも、どれにすれば……」
「あれだ!」
 アクアが頭上で怒鳴る。「あれにしろ。あの剣がまだマシなものだ」
「どれ……」
「その赤いガラス玉がはまってる奴だ」
「わ、分かった。これだな」
 翼は慌てて、剣を引き抜いた。「なんか随分細いぞ。これ」
「この中では、それが一番ましだ。ぐずぐずしてると、奴が引き換えしてくるぞ!」
「そうだな。じゃあ、これを借りてくぜ。邪魔した……わっ!」
 再び、火の鳥の飛ぶ音が近づいてくる。翼が頭を下げようとすると……
「怯むな。剣を前に構えろ!」
 アクアが叫ぶ。
「構えろっていわれても……」
「いいから言われた通りに!」
「こうかな?」
 翼は半信半疑で剣を構える。そこに、火の鳥が突っ込む。次の瞬間衝撃が起こり、アクアもろとも翼が吹っ飛んだ。
 直ぐ様、翼は起き上がる。見ると、自主研究室は衝撃波によって半壊していた。
「どうなったんだ?こりゃ……」
「いいぞ!」
「へっ?」
「今の衝突で奴は結構ダメージを受けたようだ!その剣思ったより使える!」
「倒せなかったのか?今ので?」
「そうだ。しかし、これなら牽制には使える筈だ。とにかく武器を調達した以上、ここにはもう用がない。早くここを出るんだ!」
「お、おう」
 そう言うと、翼とアクアは自主研究室から出ていったのであった。
「……無事か?」
「な……なんとかな。かすり傷だ」
「お前のことじゃない。剣だ剣!」
「ああ、そうか。えーと剣は……」
「ここよ。大丈夫。剣の色は相変わらずだけど、精霊達も安定しているわ」
「そ、そうか。全く、ひどい目に会ったな」
「さすが、創作の風土爆弾だ。片割れだけでこれだもんな」
「寮一番の問題児。関り合いにはなりたくないな」
「なつかれでもしたら大変だもんね」
 そう言うと、そこに居た全員が乾いた笑いを漏らしたのであった。
 ちなみにその頃、絵美が派手なくしゃみをしていたのは言うまでもない。

「困った……」
 人気の無い廊下である。圭介はため息を何度も吐きながらトボトボ歩いていた。「実施研究もやっと終了しそうだったのに、まさかこんなことになるなんて……」
 附与魔法学科の生徒は全員、実施研究というものを行なっている。それは、生徒自身が精霊付与された物を作製することにより、付与魔法の理解とそれによる応用力を身に付けるという目的から……
 要するに、なにかしらの魔法アイテムを作っているということである。
 圭介も例外では無く、精霊付与させる研究をしていた。しかし今回の騒ぎで、その研究対象物を没収されてしまったのである。
(せっかく上手く行ってたのにな。風の付与魔法を掛ける実験。
 でも、仕方ないか。身に覚えがないとはいえ、その魔法の掛かったボウガンを乱射しながら寮中を走り回ったんだ。
 周りの人達が、危険と感じてそれを没収するのも当然のこと。ましてや、僕が文句言える立場じゃない。
 ここは素直にボウガンの付与魔法研究を諦めるべきなんだ。それが一番いい解決法なんだ。だけど、問題は次の研究をなんにするかだ。やっぱり、暴れた時に持ってても危険じゃない物にしないと……)
 圭介はいつのまにか、立ち止まって考え込んでいた。そこに、彼らが近づいてくるのも気づかないほど真剣に……

「来るぞ!」
「分かってる!」
 翼が剣を構えると、それに答えるように火の鳥が突っ込んできた。
「くらえ!」
 翼は、火の鳥の軌道を見ながら剣を振り下ろす。だが、剣は空を切るだけだった。
「くそっ!空振りか!」
「油断するな!すぐに反転してくるぞ!」
「お、おう!」
 翼は再び剣を振る。しかし、これも簡単に避けられてしまった。
「チクショウ!速すぎて当たらねえ!」
「当てようとするな。大振りすると隙ができるぞ!」
「当てるなだと?じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」
「小振りにして、牽制だけするのだ。とりあえず奴を間合いに入らせないようにしろ」
「そんなことしてたら、いつまでも倒せねえじゃねえか!」
「倒せる!物質界で、あんな無茶苦茶な動きをしている以上、奴のエネルギーの消耗は尋常じゃない。その内スピードが落ちてくるから、そこを叩けば必ず……」
「その前にこっちがやられちまうかも知れねえだろ!ここで決着をつけた方が楽だ!」
「冷静に考えてみろ。やるより、やられない方が楽だし、今やるより、後でやったほうが簡単なのだ」
「なに言ってんだか分かんねえよ!もっと、簡単に説明して……うわっ!」
 翼は慌てて後ずさる。次の瞬間、火の鳥が翼の頬をかすめた。
「あちっ!」
「大丈夫か?」
「大丈夫に決まってっだろ!これしきの傷、かすり傷にも入らねえぜ!」
「フム、強がりを言ってる内は大丈夫だな」
「強がってなんかねえ!」
「とにかく、すぐに決着つけるにしろ、この廊下じゃ狭すぎて不利だ。もっと広い場所に移動しろ」
「言われなくても分かってらい!えーと……広い場所は……」
「馬鹿!剣を下ろすんじゃない。常に剣を構えて、相手に用心させて……」
「馬鹿とは何だ馬鹿とは!馬鹿って言う奴は自分が馬鹿なんだぞ」
「すまん!言いすぎた!謝る!だから剣を構えてくれ!」
「いちいちうるせえ!少し黙ってろ!」
「来たぞ!」
「えっ!ちょっ、ちょっとタン……」
 翼が慌てて構えようとした瞬間、火の鳥が翼の体に突っ込んでくる。その勢いで、翼は遙か後方に吹き飛ばされた。そしてその先には、立ったまま真剣に考え込んでいる圭介の姿が……
「そうだ!」
 圭介がポンッと手を叩く。「よし!これで行こう。これなら……」
「危ない!どけっ!」
 アクアが叫ぶ。しかし、願い届かず。翼は背中から圭介に体当たりをする形になった。
「フギャー!」
 変な叫び声を上げながら翼に押しつぶされる圭介。そして一瞬後……
「ゲホッ……ゲホゲホッ……くそう……」
 翼が大きく咳き込む。
「大丈夫か翼!」
 アクアが声を上げる。
「ば……馬鹿野郎……たかが鳥一匹の体当たりでやられる訳が……ん?」
 そう言うと翼は自分の下敷きになっている圭介を見る。「なんだこいつは?」
「どうやらこの男がクッションになって、翼のダメージを少なくしたのだな」
 アクアが小さくうなずく。「この男には不運だったとしか言いようがないが……」
「死んじゃったのか?」
「たぶんな……」
「そうか。悪いことしちゃったな。ナンマイダーナンマイダー……」
「イタタ……」
『ゲッ!』
 突然の呻き声に、翼とアクアは同時に声を上げた。
「生きてるじゃねえか!」
「しかし、あの勢いでぶつかって、生きてるなんて……」
 アクアが信じられないというような表情を見せる。
 しかし、実際に圭介は生きていた。それどころか骨一本すら折れてない。
「いったいなにが起こったんだ?」
 圭介はガバッと起き上がると頭を激しく振る。「確か、考え事をしてたんだよな……」
「お、おい!」
 翼が慌てて声を掛ける。
「はい。なんでしょう?」
「お前……大丈夫なのか?」
「えっ?ああ、体のことですか?もちろん大丈夫です。なんせ体が丈夫なことだけが、僕の自慢……!」
 圭介は翼を見た瞬間、顔面蒼白になる。いや、正確には翼の頭上にいるアクアを見た瞬間と言うべきか。
「あのなあ、体が丈夫なだけで済む問題じゃねえだろう」
「おい!翼!」
「なんだよ?」
「こいつ、様子が変だぞ」
「様子?別に変な様子には……」
「ト……」
「あれ?この顔は……圭介」
「知ってる奴か?」
「トトト……」
「知ってるもなにも……あっ!てめえ!」
「なんだ?私はなにもしてないぞ」
「トトトトト……」
「てめえの存在自体がまずいんだよ!」
「私の存在自体?」
「トトトトトトト……」
「とにかく逃げるぞ!」
「いったい、どういうことなんだ!」
「説明してる暇は……来た!」
 翼が振り返った瞬間、火の鳥が容赦なく突っ込んで来る。翼は慌てて横に飛んだ。「うひゃあ!」
「トカ……グワッ!」
 圭介が悲鳴を上げる。それもその筈。火の鳥の体当たりを顔面に受けて、平然としてられる程、圭介の体も丈夫ではない。圭介はそのままの勢いで仰向けに倒れてしまった。
「今度こそ死んだか?」
 アクアが恐る恐るつぶやく。
「分からねえ。なんせ圭介だからな。これくらいで死ぬような奴じゃ……」
「う……うーん」
「ホレ見ろ!生きてるじゃねえか!」
「ウーム……生命の神秘だな」
「感心してる場合じゃねえな。行くぜ!」
「行くって……こいつを放っておいていいのか?」
「いいんだよ!じゃないと、こっちの身が危ない」
「しかしだな……」
「いいから黙ってろ!振り落とすぞ!」
 そう言うと、翼は一目散にこの場から走り去る。更に一拍置いて、火の鳥が後に続く。そして……
「全く、あいつら……いったいどこまで行っちまったんだ?」
 息を弾ませて直人が走って来た。「移動が速すぎるぞ。形跡を残してくれるからなんとかなるが……」
 そう言って、壁に開いた無数の大穴を一瞥する。「しかし……物凄い破壊力だな。本当に翼達は無事……あれ?」
 直人は廊下で仰向けになって倒れている圭介を発見した。
「圭介じゃないか。なんでこんな所で寝ているんだ?」
 直人は顔をハッとさせると、壁に開いた大穴を見る。
「まさか火の鳥の攻撃を受けたんじゃ……」
 直人は顔を真っ青にさせる。「こりゃ大変だ。とりあえず人を……」
「うっ……」
 突然、圭介が呻き声を上げる。
「気がついたのか圭介!大丈夫か!しっかりしろ!おいっ!」
 直人の呼びかけに答えたのか、圭介はゆっくり目を開けた。「よかった!無事だったんだな!ハラハラさせやがって!」
「ト……」
「どうした圭介?なにか言いたいのか?」
「トトト……」
「ト?ト……なんだ?」
「トトトトト……」
「トトトって……おいっ!」
「トトトトトトト……」
「まさか……こいつ」
「トカゲ!」
「圭介……落ち着け!いい子だから。なっ」
「トカゲー!」
「駄目だ!手におえん!」
 慌てて直人は逃げ出した。しかし、動くものを追っていくのは動物の本能。直ぐ様、圭介は直人の追跡を開始したのであった。
「トーカーゲー!恐いよトーカーゲー!」

「二時間経過したぞ!精霊の様子は?」
「相変わらず異状無いわ」
「よし!完成だ!」
 彼が声を上げた瞬間、そこにいた全員が一斉にホッと息を吐いた。
「やっと終わったか」
「疲れたー」
「これで一休みできるわね」
「まあね」
「ちょうどいいや。ここで休憩をとろう。どうせ後は結果を見るだけだ」
「そうね。じゃあお茶でも入れるわ」
「それはありがたい。緊張の連続で喉がカラカラだからな」
「途中で変なのが乱入してきたしな」
「わずかの時間でこの部屋を半壊させてった奴のことだな?」
「全く、風土爆弾とは良く言ったものだよ」
「まあとりあえずは、その話は置いとくとして、この後のことを考えよう」
「そうだな。どうしようか?」
「今までは自然精霊を付与してたから結果を見るのは簡単だったけど……」
「今回は精神精霊の付与だからな」
「結果を直接見れない以上、誰かが実験台になるしかないな」
「研究内容を知らない人にやってもらわないと、純粋な結果は出ないわよ」
「創作か召還の奴を連れてくるしかないな」
「うちの学科の奴は全員知ってるもんね」
「そういうこと。さて誰にするか……」
「さっきのあれは?創作の風土爆弾」
「あれ?あれは駄目だ。気性が荒すぎる」
「悲精霊を付与させたのだったら、良い実験台になったんだろうけどね」
「今回は対象外だな」
「じゃあ、誰にする?」
「そうだな。例えば……寮長はどうだ?」
「寮長か。普段から落ち着いてるし、悪くはないな」
「毎日顔合せてるから、まるっきり他人って訳じゃないし、頼みやすいわね」
「そう。それになんと言っても寮長だ。寮生の頼みを断る訳が無い」
「考えてみると一番の適任みたいだな」
「決まりだな。じゃあ早速、寮長に実験参加を……」
 彼がそう言って腰を上げた瞬間、
「入るぞ!」
 という声と同時に、その寮長である直人が息を荒立てて乱入してきた。「すまない。ちょっと手伝って……」
『寮長!』
「な、なんだ?みんなして声を揃えて」
「いやー。丁度今、寮長のことを話してたんですよ。そしたら突然本人が入ってくるんですからビックリしましたよ」
「俺のことをねえ……。まあいいや。とにかくかく手伝って欲しいことが……」
「まあドアの前で立ち話も何ですから、こちらに来て座って下さいよ」
「それはまずい。話ならここで聞く」
「そんなこと言わずに。丁度お茶も入ったことですから」
 そう言うと、彼は直人の腕を引っ張った。
「お茶なんかいい。それより……」
「遠慮なさらずに」
「いや、そういう問題じゃないんだ。今、ここでドアを離したら……」
「ドアを?いったいなにが……」
 彼が怪訝な顔を見せた瞬間、ドアが勢いよく開く。そしてドアに体当たりしたのであろう。部屋の中に転がり込んできたのは……
『圭介!』
 またもや一同が声を揃える。まあ、同じ学科の問題児。ここには圭介を知らない人間はいないようだ。
「なんで圭介が寮長を……」
「考えても無駄だ。圭介がこんな行動をとる理由は一つしかないだろう」
「トーカーゲー」
 そう言ってガバッと起き上がる圭介。
「やっぱりな。寮長、圭介はトカゲ恐怖症なんですよ」
「……知ってるよ」
「じゃあ何故、トカゲを見せたんですか?」
「見せてない」
「トカゲは見せてなくてもサラマンダーを見せたなんて言うんじゃ……」
「見せてない!トカゲもイモリもサラマンダーも見せてない!」
「じゃあ、なんで暴れだしたんですか?」
「そんなの知るか!」
「おかしいな。今までそれ以外の物で暴れ出したことは無いのに……」
「今は原因を考えてる場合じゃないだろ。とりあえず取り押さえるのを手伝ってくれ。俺一人じゃ取り押さえられないんだ」
「そうですね。まあ、任せて下さい。圭介の取り扱いは、私達の方が熟知してますから」
 そう言うと、彼はそばにいた二人に圭介を囲むように指示する。
「こうなったら、気絶させるしか止める方法が無いんですよ。だから周りを囲むようにして一気に押さえつける方法が……」
「いいから早く!」
「……分かりました。それじゃ合図するから一斉に行くぞ。いちにの……さん!」
 同時に三人が圭助に一斉に飛びかかる。
「トカゲー!」
 間一髪。圭介は叫びながら、ジャンプしてかわす。だが、方向がまずかった。部屋の奥へ飛んだ圭介は、そのままお茶の置いてあったテーブルへ突っ込んだのである。
「あちゃー。まともに突っ込んじゃったよ圭介の奴」
「せっかく入れたお茶なのに……」
「お茶よりも圭介の心配しろよ。なんか体をピクつかせてるぞ」
 直人が苦笑いする。
「大丈夫ですよ。これくらいで死ぬような奴じゃないですから」
「まあ、これで一件落着ってことです。後はどっかにうっちゃっとけば、そのうち勝手に目を覚ましますよ」
「そんな動物じゃないんだから」
「暴れ出した時の圭介は動物その物ですよ」
「本能のまま行動するもんね」
「その通り。とにかくここに置いといたら邪魔なんですけど」
「そうみたいだな。よし、どかそう」
「じゃあ、そっちを。ところで寮長……」
「なんだ?」
「実はお願いが……」
 彼がそう言いかけたその時、圭介が突然ガバッと起き上がった。一瞬、部屋の中に緊張が走る。だが圭介は、さっきまでの狂気に満ちた表情から惚けた顔へと変化していた。
「……正気に戻ったのか?」
「分かりません。……おい、圭介。正気に戻ったのか?戻ったんなら返事しろ」
 彼が恐る恐る呼びかける。しかし圭介は、相変わらず惚けた顔のままであった。
「……反応ないな」
「どうしたんでしょう」
 彼が訝しげな顔を見せていると、圭介は小さく口をパクパクし始めた。
「……なんかつぶやいてるみたいだな」
「よく聞き取れませんね」
 彼はそう言うと、圭介の顔に自分の耳を近づけた。「圭介、スマンがもう少し大きな声で……えっ?なんだって?」
「なんて言ってるんだ?」
「キルと言ってます」
「キル?なんだそりゃ?」
「さあ……ただ、その言葉を繰り返しているだけで」
「あーっ!」
 突然、奥にいた女の子が声を上げる。
「なんだ今度は!」
「け、圭介が剣を持ってる……」
「へっ?わぁーっ!」
 それに気づいて、慌てて後ずさる彼。それに続いて、直人を除いた全員が圭介から離れた。ただ一人事情を知らない直人だけが圭介の前に取り残される。
「お、おい。いったいどうしたんだ?みんなして」
 直人が呆然とした面持ちで訊く。しかし、次の言葉は意外な所から発せられた。
「斬る……」
 圭介はそうつぶやくと、剣を杖代わりにしてユラリと立ち上がった。続いてその剣を上段に構える。
「な……なんかヤバイ予感がするような」
 直人は苦笑いする。
「斬る……斬る斬る斬る!」
 圭介は叫びとともに直人に向かって剣を振り下ろした。間一髪。直人はそれを避けて、テーブルの下へと逃げ込む。
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
 圭介は『斬る』を連呼しながら、テーブルに向かって剣を何度も叩き付ける。
「いっ、いったいどうしたんだ圭介!」
 直人は必死に呼びかける。しかし圭介は、ただただテーブルの上から直人を攻撃しているだけである。
「少し落ち着けよ圭介!」
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
「やっぱり駄目か……いったい圭介はどうなっちまったんだ?」
 直人がテーブルの下で嘆いていると、
「お答えしましょう」
 そう言って、彼がテーブルの下に入って来た。「なぜ、さっきまで『トカゲ』と叫びながら暴れていた圭介が、今は『斬る』と叫びながら暴れているのか。それは……」
「ちょっと待て」
「なんですか?」
「随分余裕持ってないか?その圭介がテーブルの上から、必死で剣を叩き付けているというのに」
「それも合わせてお答えしましょう。今、圭介が暴れているのは、トカゲ恐怖症のせいではありません」
「トカゲ恐怖症のせいじゃない?」
「そうです。寮長も気づいていると思いますが、圭介は今、剣を持ってますよね」
「まさか、あの剣のせいとでも言うのか?」
「その通りです」
「……お前らが魔法剣の製作をしているのは知っていたが」
 直人はあきれた顔をする。「まさか、こんな危ない剣を作っていたとは……」
「いや、それほど危険な物じゃないんですけどね」
「これがか?」
「これは違いますよ。私達が製作していたのは、剣に憎精霊を付与させることにより、持つ物に精神コントロール促して、筋力を強化させるという……」
「なんの精霊だって?」
「ですから憎精霊です。憎しみの精霊と書きます」
「そんなの知ってる!それより、なんだって憎精霊なんか付与させたんだ!」
「それはですね。人間、どんな感情の時が力を発揮しやすいかとみんなで検討した結果、憎しみに溢れている時がということで……」
「その結果があれか?」
「だから、あれは違いますって。製作では、あそこまで憎しみに心を奪われる程、憎精霊は付与してないんですから」
「じゃあ、あれはどう説明するんだよ!」
「さあ……」
「さあって、さっきお答えしますって言っただろうが!」
「私がお答えしますと言ったのは、圭介の暴れ方がどう変化したのかであって、なぜ圭介があそこまで感情を変化させたのかを答えるとは言ってませんよ」
「つまり分からないってことか?」
「そういう訳でもありません。原因はだいたい予想がついてますが……あっそうそう」
「どうした?」
「もう一つの質問があったのを思い出しました。なぜ私が、余裕を持って寮長と話しているのかというとですね……」
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
 次の瞬間、圭介の執念が実り、テーブルが真っ二つに割れた。結果、二人を守る物はなにもない。
「寮長」
「な、なんだ?」
「逃げた方がいいですよ」
「それはそうだが……うわっ!」
「斬る斬る斬る!」
 圭介が直人に向かって剣を振り下ろした。慌てて直人は圭介の攻撃を避ける。だが、今度は直人を守る物は無い。直人は部屋の外へと這い出すように逃げ出す。
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
 そして、剣を振り回して圭介が直人の後を追って出て行ったのであった。
「……教える前に行ってしまったか」
 彼は少し不満気な表情を見せる。「まあいいか、圭介の目標は寮長だけだってこと、どうせそのうち分かることだし」
「ねえねえ」
 部屋の隅に避難していた彼女が、興味深げに訊いてくる。「なんで、圭介は寮長しか狙わないって分かったの?」
「ん?別にたいしたことじゃない。原因や叫び声が違うとは言え、圭介の暴れ方はいつもとなんら変わらなかったからさ」
 彼はあっさりと答える。「そして、いつもは暴れる目標を見つけたら、他の物には目もくれないだろ」
「あっ……なるほどね」
「しかし、なんで圭介はあんなに激しく暴れ出したんだろうな?」
「もともと圭介が精神的に憎精霊の作用を受けやすい人物だったか、もしくは……」
「あの剣に付与した憎精霊が暴走していたかよね。やっぱり剣が赤く変色したのって、精霊が暴走したからじゃないの?」
「見た目には安定してたんだろう?」
「作製時に安定してても、作用した瞬間に暴走することはよくあることよ。だから使用実験っていうのがあるんじゃないの」
「ああ、そうか」
「つまり、今回の作製は……」
「失敗だってことね」
「そういうことになるな。やっぱり……」
「失敗か……結構苦労したのにな」
「落ち込まない落ち込まない。また新しく作ろうよ。今回の経験を活かしてさ」
「そうだな。落ち込んでてもしょうがない。早速次の製作を始めよう。今度はどんな物を作るか……」
「その前に圭介の方はどうするの?まだ暴れて寮長を追いかけてるけど」
「追いかけられてるのは寮長なんだから、心配する必要はないさ。自分で何とかするよあの人なら」
「それもそうね」
 そう言って、彼らはあっさり納得すると、次の製作会議を始めてしまったのである。

「本当にこっちにあんのか?」
 翼が疑わしい表情で言う。
「たぶんとしか言えないな」
「そう言って、さっきから何回間違えてるんだよ。もう少ししっかりしてくれよな」
「しっかりしろと言われても……」
 アクアがそれに答える。「私だって、それほどこの建物に詳しい訳ではないのだ。断言できないのは当然のことだろう」
「戦闘に有利な広い場所ね……どこでもあんま変わんねえと思うけどな」
「とにかく、そこまで我慢してくれ。そこでなら思いっきり剣を振らせてやるから」
「本当だな。約束したからな。嘘ついたらお前を床に叩き付けてやる」
「分かった分かった。全く、そんな嘘をどうやればつけるって……ん?」
「どうした?」
「なにか変な声が聞こえてこないか?」
「声?どんな声だ?」
「どんなと言われても……人間の声には間違いないのだが……」
「なんて言ってるか分かるか?」
「キル……とか言ってるな」
「なんだそりゃ。訳分からん。だいたいそんなの気にしてる場合じゃねえだろう?」
「しかし……」
「しかし、なんだよ?」
「こっちに近づいてきてるぞ」
「こっちにって……わっ!」
 翼が声を上げる。突然、角から出てきた男にぶつかりそうになったのだ。続いて……
「わっ!」
 その男……直人も驚いた顔をする。「なんだ翼か。あんまり驚かすなよな」
「それはお互い様だ。突然驚かしやがって」
「それもそうだな……」
 直人がハハッと笑う。そして次の瞬間、さらに驚きの顔に変わった。「つ、翼じゃないか!どこ行ってたんだ!探したんだぞ!」
「な、なんだよ突然」
 直人に思いっきり体を揺すらされて、翼は目を白黒させる。「ど、どこって言っても、ずっとあちこち逃げ回ってて……あっ、伏せた方がいいぞ直人」
「へっ?」
 不思議な顔のまま、翼のやる真似をする。次の瞬間、火の鳥がものすごいスピードで二人の頭上を過ぎ去っていった。
「相変わらず単調な攻撃だな」
 翼はあきれた顔をする。
「所詮は一精霊の右腕だ。ワンパターンな攻撃しかできないのだろう」
「な、なんだ今のは?」
 直人が呆然とした顔で訊いてくる。
「なんだっけ?」
「フレイ……つまりイフリートの右腕だ」
「あれが?お前ら、あんなスピードで飛んでる奴から逃げてたのか?」
「まあな。でも結構馬鹿だから、慣れればすぐに避けられるぜ」
「はあ……そんなもんなのかね」
「ところで直人はなにやってんだ?」
「だから俺は、お前達を保護しに……わっ!追いついてきた!」
「どうした突然」
「実は俺も今、圭介に追われてて……」
「圭介に?」
「翼、圭介ってもしかしてさっきの……」
 アクアが思い出すように言うと、
「そ、それより早く逃げないと!」
 翼がそれを遮るように言った。「おい!いったいどこなんだよ!戦う所ってのは」
「まあ待て。確かここら辺……そうだ思い出した。あそこだ!」
 そう言うとアクアは、確信したようにその場所を指し示す。
『あそこって……』
 直人と翼は同時にそこを見る。
「食堂のことだったのか」
「その通り。あれくらいの広さがあれば、だいぶこちらが有利になれるのだ」
「有利ねえ……」
「事情はよく分からんが。ここはとにかくサラマンダーの言う通りにしよう」
 そう言うと直人、翼、アクアの二人と一匹は、食堂へ逃げ込んだのである。

「まずいな……」
 そう言ってつぶやいたのは、この場所を指定したアクア本人であった。「まさか、こういう状態になるとは」
 人気の無い食堂である。とはいっても、昼に近い時間のため、厨房から食事の準備で慌ただしい音が聞こえてくるが……
「いったい何者なのだ?あの男は」
 アクアが二人に訊いたのは、もちろん圭介のことである。
「斬る斬る斬る……」
 ただいま圭介は、剣を構えたまま、ゆっくりと直人達に近づいて来ている。
「何者と言われても……」
 直人は苦笑する。「精神精霊に支配されてる、ここの寮生……としか説明できないな」
「全く、フレイの右腕だけでも頭が痛いと言うのに……」
「それはお互い様だ。その右腕だって、どこから襲ってくるか分からないんだろう?」
「確かにそうだが、フレイの方はそれなりに手をうつことができる。しかし、この男の戦力はまだ分からないからな」
「敵が二人に対して、対抗する武器は一つだけ。しかも、圭介の方はなるべく傷つけないで取り押さえなくっちゃならない。きつい条件だな」
「くそっ。せめて俺の魔法が使えれば」
「なんだ翼。お前まさか、精霊魔法が使えなくなったのか」
 直人は驚きの声を上げる。
「いや、そう言う訳じゃねえんだけど」
「翼の属する土精霊ではフレイを攻撃しても無駄なのだ」
「そういうこと。結局、魔法を唱える意味がねえんだよ」
「ん?待てよ……」
 アクアが突然ハッとした顔で直人を見る。
「お主、もしかして水精霊に属する者じゃないのか?」
「えっ?そうだけど……よく分かったな」
「精霊感知能力というものがあるのだ。それより私の言う通りなのだな?」
「……まあな」
「よし!それならなんとかなるぞ」
 そう言うと、突然アクアは直人の頭の上に飛び乗った。
「わっ!いきなりなにするんだ!」
「フレイの狙いは私だ。私がお主の体に移れば、フレイはお主のほうに向かって飛んでくる」
「いったいどういうことなんだよ」
「まだ分からぬのか?水精霊はフレイに対抗できる精霊なのだ!つまりお主なら、フレイにダメージを与えることができる!」
「あっなるほど。だから千歳さんは……」
「ところで俺はどうすればいいんだ?」
「翼はあの精霊に心を奪われた男の相手をしててくれ。その間にこっちがフレイの右腕を退治する」
「で、でも相手は武器を持ってるぜ」
「翼も持ってるじゃないか」
「そりゃそうだけど……」
「安心しろ。憎精霊に支配されている以上、あの男に思考能力はない。フレイの攻撃より単調で避けやすいはずだ」
「そうは言ってもよ……」
 翼は不安げな表情をする。
「それにな、あいつにはお主の精霊魔法は充分通用する筈だ。思いっきり魔法を唱えられるぞ」
「あっ、それいいな」
「剣も振って、魔法も使える。魔法戦士とはお主のような者を言うのだな」
「魔法戦士?いい!いいな、その響き!」
「そうだ、魔法戦士があんな奴にやられる訳がない!逆にやっつけてしまえ!」
「よーし!いっちょやってやるか」
 翼は俄然やる気を起こした。実に乗せやすい奴である。
「おいおい、あまり派手にやるなよ」
 直人は翼のやる気に少々不安を感じるが、そんなこと翼の知ったことではない。
「直人、心配は御無用だぜ。なんつったって俺には二回もあいつを取り押さえた実績があるんだからな。行くぜ!」
 翼は気合いを入れると、忙しく指を動かし始めた。「ストーン・ブラスト!」
 唱えた瞬間、翼の手の平から無数の石つぶてが発射された。
「斬る斬る斬る……ぐわっ」
 突然の石つぶて攻撃に悲鳴を上げる圭介。しかし、圭介にはそれほどのダメージにはならなかったようだ。それどころか……
「斬る……斬る斬る斬る」
 今まで直人しか見ていなかった圭介が、突然翼を睨み付けたのである。どうやら目標が変更されたようだ。
「斬る斬る斬る!」
 圭介が剣を振り上げて突進する。
「よし!こっちだ」
 翼はそう言うと、直人達から離れる。圭介は直人には目もくれず、翼を追って行ったのである。
「へー。軽い威嚇で敵を分散させる。翼もなかなかやるな」
「感心してる場合ではない。来るぞ!」
「えっ?どこだ?」
「上だ!」
「上!」
 直人はさっと上を見る。同時に火の鳥が天井を突き破って急降下してきた。
「避けろ!」
 アクアが叫ぶ。しかし、直人は動かなかった。すでに翼とは比較にならない早さで、指を動かす作業は終了していたのだ。
「ウォーター・ボール!」
 直人が唱えると、直人の手の平から水の玉が発射される。水の玉が火の鳥に直撃した瞬間、物凄い水蒸気が発生した。
「やったか?」
「いや、まだまだ。あんな物じゃ、フレイを相互作用で消すのは無理だ」
「そうか……」
「とはいえ、奴も物質界でだいぶ無理をしている筈だ。消さないまでも弱らせることはできたかもしれん」
「そうであればいいんだが。俺だって何発もウォーター・ボールを撃てる訳じゃないし」
「そうだな。翼の剣が使えない以上、何か対策を……」
「あれこれ悩んでる場合でも無いだろう。俺のやり方をさせてもらうぞ」
「お主のやり方?……わっ!なにをする?」
「俺のやり方には囮が必要なの」
 そう言うと、直人はアクアを無造作につかんだのであった。「鳥を捕える罠には、おいしい囮を使うのが一番だからな」

「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
 圭介が叫び声と共に、何度も何度も剣を叩き付ける。翼はそれを持っていた剣で必死で受けとめていた。
(くっそー。圭介に、こんな腕力があったとは……このままじゃこの剣も折れちまうぜ。
とにかく、一回間合いをとらなくっちゃ)
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
「あーうるさい!」
 翼は声と共に、剣を斜め後ろに流した。勢い余って、つんのめる圭介。その隙に翼は圭介から大きく離れ、魔法の準備をする。
「斬る?……斬る斬る斬る!」
 一瞬拍子抜けた表情を見せた圭介。しかしすぐに、翼に突進して行った。「斬る斬る斬る!」
 圭介の剣が翼に襲いかかる。間一髪、翼の魔法が完成し、床に自分の両手をつける。
「アース・ウォール」
 翼が声を上げて、床につけていた手を地面から一気に真上に上げた。それに続いて床色の壁が二人の間にせり上がる。
「斬る斬る斬……ぶっ!」
 圭介は突然の壁に止まり切れず、物凄い勢いでぶつかる。そしてそのまま壁に体を預けてズルズルと崩れ落ちた。しかし、丈夫が自慢の圭介。すぐに立ち直ると、壁に向かって剣を叩き付け始めた。
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
 圭介は何度も何度も壁に剣を叩き付ける。
しかし、今度の相手はテーブルなどの薄板ではない。傷はつくものの、到底破れる様子は見られなかった。見られなかったのだが……
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
 そんなことは気にしない圭介。取り憑かれたように壁に剣を叩き続ける。(すでに取り憑かれてるんだけど……)
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
 必死に剣を叩き付けている圭介からわずか数メートル横、壁の端から翼が顔を出した。
(……あいつもしかして、本当の馬鹿なんじゃねえのか?)
 翼は苦笑しながら、圭介の視界に入らないように圭介の後ろに回り込んだ。
(さてと、どんな魔法を使ってやろうか。アース・クエイクは直人に禁止されてるし。他の派手な奴もみんな威力があるからな……少し地味な奴にするか)
 翼は軽く鼻を鳴らすと、指を動かして魔法を完成させる。「マリオネット・ストーン」
 唱えた瞬間、翼の手の平からサッカーボール並みの石が発生した。
「行け」
 翼がつぶやいた瞬間、石は弾かれたように圭介目掛けて飛んでいく。岩はそのまま必死に壁と戦っている圭介の後頭部に直撃した。
「フギャ!……斬る?」
 石をぶつけられ、初めて翼が移動していたことに気づく圭介。すぐに立ち直って翼の方に走り出そうとした瞬間……
「ウギャ!」
 戻ってきた石が、再び圭介の後頭部に直撃する。更に二度三度と頭に石をぶつけると、さすがの圭介も立っていられなくなった。
「き……斬る……」
 圭介はフラフラしながらも、剣を振り上げようとする。しかしすでに圭介は、自分のすぐ近くまで近づいてきた翼を確認することすらできなくなっていた。
「とにかくこの剣さえ奪っちゃえば、なんとかなるだろう」
 そう言って、翼は圭介の持つ剣に手を……
「やめろ!」
 突然のアクアの声に、翼は手を止めた。
「な、なんだよやめろって」
 翼はアクアを見る。「俺は圭介を取り押さえようと……あれ?お前なにやってんだ?」
 翼がアクアを見て拍子抜けた顔をする。
「そんなことはどうでもいい!とにかく、その剣に触っては駄目だ。憎精霊に心を奪われるぞ!」
「心をねぇ……分かった。触んなきゃいいんだろ、触んなきゃ」
「危ない!」
 アクアが叫ぶ。圭介が最後の一撃とばかりに剣を振り下ろしてきたのだ。
「おっと」
 翼はおどけた顔でそれを避ける。剣は空を切ると、そのまま地面に叩き付けられた。
「危ねえ危ねえ。全く、こういう奴に刃物を持たせるなよな」
 翼はそう言うと、自分の剣をすくい上げるように振って、圭介の剣を弾き飛ばした。
「これでよしと」
 翼がうなずくと、圭介は糸を失った操り人形のように崩れ落ちたのであった。

「いくらフレイを罠に掛けるとは言え、これはあまりにも酷い仕打ちじゃないか?」
 アクアは不満気につぶやく。まあ、縄でぐるぐる巻にされて吊るされれば、誰でも(精霊でも)文句を言うのは当たり前である。今のアクアは、まさにその状態だった。
「だいたいここは、精霊を虐待する人間が多すぎるぞ」
 アクアは、縄の先端を持ってる直人を睨み付ける。「水責めにするとか、壁に叩き付けるとか、はては囮に使うとか、よくそういうことを考えつくものだな」
「いちいちうるさいサラマンダーだな」
「だから私はサラマンダーではないと言っておるだろうが!」
「どっから見てもサラマンダーだ」
「それは外見だけだ」
「とにかく、少し静かにしてろよ。あんまりうるさいと相手が警戒するぞ」
「フレイが今の私を警戒などするものか。それよりこれでは身動きがとれないのだ、見捨てることだけはしないでくれよ」
「さあな。保障はできないね」
「くそう……我身がこんな状態でなければ」
「どうだ?来そうか?」
「ああ、態勢を立て直したようだ。そろそろ来るぞ」
「どっちだ?」
「また、上だな」
「上か……天井の修理はやっかいなんだぞ」
 直人のぼやきが聞こえたのだろうか。火の鳥はすでに開いた穴から直人……いや、アクア目掛けて急降下してきた。しかし突然、透明な膜が火の鳥に絡みつくと、その動きにブレーキをかける。火の鳥は必死にもがくもののスピードは徐々に下がり、ついには直人の目の高さの所で停止してしまった。
「……見事にかかったな」
「確かに見事としか言いようがないな」
 アクアは感心した顔をする。「私の周りにウォーター・ネット張り巡らせるなんて単純な罠、よく引っかかった物だ」
「単純な罠だから引っかかったんだよ。やっぱり罠はシンプルなのが一番!」
「ところで、なんで私を縛ったのだ?なんか意味があったのか?」
「気分だよ気分。その方が囮みたくていいだろう?」
「……まあいい。とにかくフレイを捕まえたんだ。縄を解いてくれ」
「そうだな。ちょっと待ってろ」
 直人がアクアの縄を解こうとすると……
「ブチブチ……」
 という音がする。次の瞬間、火の鳥は吠えるような叫び声を上げると、魔法の網を突き破ってしまった。
「ありゃりゃ。ウォータ・ネットを力ずくで破るとは、なんて非常識な奴だ」
 直人は慌てて、魔法の準備をする。しかしそれが終了する前に、火の鳥は最後の力を振り絞って、フラフラと飛んで行く。昼食の準備で忙しい厨房へ……
「な、なによこの鳥?」
 厨房から食堂のおばちゃん達の声が聞こえてくる。
「あっち行けー!」
「そっちに行ったわよ!」
「なんでこっちに来るのよ!」
「わっ!火の中に突っ込んだわよ!」
 この言葉を聞いた瞬間、直人は火の鳥のやろうとしていることが読めた。
「ま、まずい!」
 直人は声を上げると、厨房へ駆けつける。しかし、もう手遅れだった。
 厨房の入り口で直人が見た時、火の鳥はすでにエネルギーを回収し、さらに多くのエネルギーを得て一回りも二回りも大きくなっていたのである。

「どうすんだよ、こんな怪物」
 翼が不安げに言う。
「どうすると言われても……」
 直人は答えようがなかった。すでに何発ものウォーター・ボールをぶつけているのである。しかし、怪物へと変化した火の鳥には足を止める程度にしかならなかったのである。
「とにかく、こんなのが暴れ回ったら寮中がパニックになる。なんとか食堂から出さないようにしないと……」
「と、とりあえず水を掛ければいいんだろ?バケツに水を汲んで……」
「それじゃ駄目だ。奴を消滅させる程の水の精霊を投入するには、バケツの水程度の精霊力じゃ少なすぎる!」
「でも、少しはダメージがあるんだろ?」
「奴にはそれ以上の回復力があるのだ」
「つまり、山火事にバケツリレーをしても意味が無いのと同じだな」
「山火事ね……何となく分かったような気がする。ところで……」
「なんだ?」
「結局どうすんだよ。この状況」
「だから、それを今考えてるんだろうが!」
「ああ、そうだっけ。さて、どうしようか」
「なんか俺、今のでどっと疲れたぞ」
 直人と翼が掛け合い漫才をしている頃、食堂に近づく二つの影があった。
「疲れた……」
 そう言うと、絵美はため息をつく。「広い広いとは思ってたけど、本当になんて広さなの?この建物は。普通、建物の中を案内してもらうだけで合計三時間もかからないよ」
「そんなに広かったですか?」
 美奈子はそう言って、絵美を見る。「そんな広いと感じたことはありませんけど」
「それは美奈ちゃんがこの建物に慣れてるせい。はっきり言って、こんな広い建物他には無い!」
「ありますよ。本校舎とか、先生達の住んでる所とか……」
「そりゃ、この学校にある建物はどれも大きいけどさ……まあ、いいや。とにかく、朝から歩き通しでお腹ペコペコなの。早く食事をとりたい!」
「でも、昼食まで少し時間が早いですよ。食堂開いてればいいんですけど」
「開いてると思おう。人間、前向きに考えてれば思い通りになるもんだ」
「そう上手く行きますかね?」
「行く!行くと信じる!それが一番大事!」
 そう言って、絵美は食堂のドアを開ける。そして、絵美はその場で動きを止めた。
「どうしたんですか絵美さん?」
「えっ?いや……その……空腹のせいかな?私、幻覚を見てるみたい」
「幻覚?絵美さん、突然なにを言って……」
 美奈子もそこで言葉を切ってしまった。それも仕方ないことで、それ程に食堂の中は異様なムードに包まれているのだった。
 まともに立っているのが一つもない、テーブルやイス。天井に開いた大穴。突き破られている床と、そこに撒かれているコンクリート破片。そして、厨房から顔を出している異様な大きさの異様な鳥。いかにも食堂らしくない光景がこの中に広がっていたのである。
「朝来た時は何ともなかったのに……いったいなにがどうなってるの?」
「なんとなく予想がつきます」
 そう言うと、美奈子は倒れてる男を指さした。「あれを見て下さい」
「あれ?誰か倒れてるね。あれは……もしかして圭介君じゃないの?」
「たぶんそうだと思います。そして、あの突き破られた床。あれは精霊魔法、アース・ウォールの名残りです。そしてそんな魔法を唱える奴は……」
「翼君?じゃあ……」
「アクアを返しに行った時に、圭介さんにアクアを見られて追いかけ回されて、ここまで逃げてきた。そんな所じゃないんですか?」
「はあ……なるほど」
「全く、圭介さんを取り押さえるにしても、アース・ウォールなんてやりすぎです。少しは魔法の選択を……本人に言わなきゃ意味無いですね」
「まあ、翼君を探すのは後にするとして、とりあえず圭介君を……」
「そうですね。もう、正気に戻っているでしょう」
 そう言うと、二人は圭介の所へ向かった。
「こらっ圭介君!起きろ!」
 絵美は圭介の頬を軽く叩く。しかし、起きる気配は全く感じられない。
「そんなんじゃ駄目ですよ。もっとこう」
 突然、美奈子は圭介の胸倉をつかむと、往復ビンタを食らわした。しかし、それでも起きる気配はない。「おかしいですね。普通ならたいがいこれで目を覚ますのですが」
「普通、そこまでやらないって」
「そうですか?私はいつもこれで翼を起こしてますけど……」
「……分かった。もういい」
 絵美はあきらめた表情を見せる。さらに圭介に往復ビンタを食らわせている美奈子を横目に、絵美は辺りを見回した。そして……
「あれ?あんなとこに剣が落ちてる」
「えっ?剣ですか?」
「なんでこんな所に、剣なんて物騒な物があるのかな」
「圭介さんのじゃないですか?朝も変な弓を持っていましたし」
「たぶんそうね。とりあえず預かって、圭介君が正気に戻ってたら返すことにしよう」
 そう言うと、絵美は剣を取りに行った。
「これだけやっても起きないなんて、もしかして死んじゃてるんじゃ無いのかな……」
 美奈子がつぶやいた瞬間、突然厨房の方から派手な音が響き渡った。
「な、なに?」
 美奈子が急いで振り向くと、壁が崩れたのだろう、厨房から土煙が舞い上がる光景があった。そして、土煙の中から二つの影が……
「直人さん!それに翼!」
 美奈子が驚きの声を上げる。その声に気づいたのだろう、二人は美奈子に向かって走ってきた。
「よ、よお美奈子」
 翼が呑気に挨拶してくる。「なにやってんだ?こんな所で」
「それはこっちのセリフよ!あんたさっきからなにやってんの!この寮を壊す気なの?」
「別に壊すつもりはねえんだけど……」
「直人さんも直人さんです。翼といっしょになって、なにやってんですか!」
「いや、その……話せば長くなるんだが」
「話して下さい!」
「悪いが、そんなことを悠長に話してる場合じゃない。あの鳥の動きを止めなくちゃならなくてね」
「なんなんです?あれは?」
「火精霊のなれの果てとでも言っておくよ」
「火精霊?もしかしてアクア……」
「へっ?」
「いえ、その……もしかしたら翼が持っていったサラマンダーなんじゃないかと……」
「違う違う。あれはサラマンダーじゃなくって……」
 そう言いかけて、直人は突然言葉を切る。
「そうそう、あのサラマンダーなら今、直人が……あれ?どうした直人?」
 翼が直人の表情の変化に気づいた。「顔が真っ青だぞ。魔法の使い過ぎか?」
「いや、そんなんじゃなくって。その……」
「どうしたんだよ?」
「……翼」
「なんだ?」
「お前、あのサラマンダーどこに行ったか知らないか?」
「どこって、直人が持ってたじゃねえか」
「そうだよな。確かにそうなんだが……」
「さっきまで、縄でグルグル巻にして吊るし上げてたよな」
「そう。その後は?」
「その後?」
「その後、全然記憶がないんだ。どうやら、どっかに無くしちまったらしくて」
「無くした!」
 翼が驚きの声を上げた。「無くしたって、縄でグルグル巻にしたままでか?」
「たぶん……縄を解いた覚えないし」
「直人さん!」
 突然美奈子が声を上げる。
「な、なんだい美奈ちゃん」
「あ、あれ……」
 そう言って、美奈子は火の鳥を指さした。いや、正確には今まさに火の鳥に襲われようとしているアクアの姿が……
「いた!」
「直人!ウォーター・ボールだ!」
「間に合うか!」
 直人が急いで指を動かす。「ウォーター・ボール」
 間一髪!水の玉が火の鳥の顔に当たり、火の鳥の顔を仰け反らせた。
「よし!間に合った!」
 直人が歓喜の声を上げる。
「今よ翼!」
 美奈子が叫ぶ。
「なんだよ今よってのは?」
 翼がつっこむ。
「アクアを助けるに決まってるでしょ!」
「なんで俺が」
「つべこべ言ってないで早く行け!」
「分かったよ。人使いが荒い奴だ。直人、ちゃんと援護しろよ」
「任せとけ!」
 直人は翼には目もくれず、再び指を動かし始めた。「ウォーター・ボール」
 直人の手の平から水の玉が発射される。
「わ、私もやります。えっと……」
 美奈子も指を動かし始める。「ウ……ウィンド・カッター」
 もちろんこの魔法は、火の鳥には全く効果が無かった。風精霊と火精霊とではお互い非干渉なのだから。それでも美奈子は、直人同様に何度も魔法を唱え続けたのである。
「ウォーター・ボール」
「ウィンド・カッター」
「ウォーター・ボール」
「ウィンド・カッター」
「斬る……」
「ウォーター・ボール」
「ウィンド・カッター」
「斬る斬る斬る……」
「ウォーター・ボール……美奈ちゃん」
「ウィンド・カッター……な、なんですか直人さん?」
「斬る斬る斬る斬る斬る……」
「ウォーター・ボール……なんか変な声が聞こえてこないか?」
「ウィンド・カッター……そう言えば、キルとかいう言葉が……」
「斬る斬る斬る斬る斬る……」
「ウォーター・ボール……なんかいやな予感が……」
「ウィンド・カッター……どういうことですか?あっ!絵美さん!」
「絵美ちゃん?絵美ちゃんって……」
 直人が、声のする方を見る。「げっ!絵美ちゃん!」
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る……」
 絵美は『斬る』を連呼しながら、持っていた剣を上段に構えた。「斬る斬る斬る……」
「直人さん、絵美さんどうしちゃったんですか?目が座ってますよ」
「いや、その……これも話せば長いんだが……」
「斬る!」
『わっ!』
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
 絵美は剣を構えたまま走り出した。絵美が走り出した方向、そこには……
「絵美さん!危ないですよ!そんな剣で火の鳥に立ち向かうなんて……」
「美奈ちゃん。今の絵美ちゃんには、なにを言っても無駄だ」
「無駄って、どういうことですか!」
「だからそれは……」
「こら!直人!援護はどうした援護は!俺を見殺しにする気か!」
「あっ、悪い悪い」
 直人は指を動かす。「ウォーター・ボール……翼!」
「なんだ?あれっ?絵美!なんでこんな所に……わっ!それは圭介の剣!」
「ウォーター・ボール……翼!絵美ちゃんを止めてくれ!」
「止めろったって、まだサラマンダーも助けてねえのに……」
「いいから早くやりなさいよ!」
「うるせえな!だったらお前も手伝えよ!」
「私はあんたの援護魔法で忙しいのよ!」
「お前の魔法なんか、効く訳ねえだろが!」
「な、なんですって!」
「てめえの魔法なんか、あっても無くても一緒だ!役に立ちたかったらこっち手伝え!」
「ウォーター・ボール……美奈ちゃん。悪いが翼の言う通りだ。奴は……」
「直人さんまで、私の魔法能力を疑うんですね!分かりました……」
「分かったら、さっさと来い!」
「分かったわよ!私の実力を見せてやろうじゃない!」
『へっ?』
 二人が拍子抜けた顔をしてる間に、美奈子は魔法を完成させた。
「風精霊、最大最終究極魔法!」
「や、やめろ!美奈子!」
「ウォーター・ボール……やめるんだ美奈ちゃん!」
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
「フリーズ・ウェーブ!」
 突然、美奈子の周りの空気が張りつめたように冷たくなる。そしてその空気が美奈子の手の平に集約した次の瞬間、絶対零度の空気の波が火の鳥に向かって打ち出された!
 そのスピードはすさまじく、直人の打ち出した水の玉に追いつくような速さで……
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
 突然絵美が、火の鳥の前に立ち塞がった。たいした理由ではない。ただ、火の鳥に自分の持つ剣を叩き付けるために……
「斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る!」
 絵美が剣を振りかぶった次の瞬間、水の玉が絵美の持つ剣に当たる。
「斬る斬る斬る……斬る?」
 自分の剣に異変を感じ、顔を振り向かせる絵美。そこに美奈子が打ち出した絶対零度の空気が剣に衝突した。
「きゃぁぁ!」
 あまりの衝撃に悲鳴を上げる絵美。次の瞬間二つの精霊魔法は、一本の剣に容赦無い変化を強制させた。
 風精霊が水精霊を媒体にして、剣の周りの空気を凍りつかせる。凍りついた空気は水精霊の影響を強くし、剣に氷の刃を張り付かせる。氷の刃は風精霊の影響を更に強くして、水精霊を媒体にし、周りの空気を凍りつかせる。
 そうした無限の繰り返しの末、絵美の持つ剣は氷の刃を木の根のように伸ばしながら、まるで生き物のように火の鳥に絡みついていったのである。
 火の鳥は悲鳴を上げながら、それから逃れようと必死にもがく。しかし、それすらも許さないかのように。氷の根は火の鳥の隅々にまで絡んでいく。
 数秒後、氷づけにされた火の鳥が完成すると、剣の精霊力が空になったのだろう。剣は絵美の手からずり落ちる。そして……
「絵美さん!」
「絵美ちゃん!」
「絵美!」
 意識を失った絵美は、その場で崩れ落ちたのである。

「随分派手にやったものね」
 千歳が半ばあきれた顔で、氷づけの火の鳥を見た。「これじゃ、しばらく食堂が使えそうにないわ」
「すみません……」
 美奈子が頭を下げる。「私がカッとなっちゃってフリーズ・ウェーブなんかを……」
「いいのよ。結果的にそれがフレイを止めることになったんだから」
「はあ……」
「厨房が無傷だったのが不幸中の幸い。とりあえず配給さえあれば、この寮で文句言う奴なんかいないんだから、そう気にすることはないわ。それで直人は?」
「翼と一緒に圭介さんを居住区に運びに行きました。あっ、そうだこれを千歳さんがきたら渡すようにと……」
 美奈子はそう言うと、縄でグルグル巻にされ、気絶しているアクアを差し出した。
「なんで縄で縛られてるの?」
「さあ、私もよくは……」
「まあいいか。とにかくこれは……」
 そう言うと、千歳は脇に立っていたフレイにアクアを手渡した。「とりあえず、これで一段落と」
「そうですね。では、私の右腕も元に戻しましょう」
 アクアがそう言った瞬間、氷づけにされていた火の鳥の体が光に包まれる。そして光は凝縮されると、フレイの右肩へと戻って行ったのである。「だいぶ傷つけられたみたいですね」
「それはお互い様よ。こっちだって寮中に大穴を開けられたり、食堂を半壊させられたりしたんだから。だいたいフレイがアクアに逃げられなければ、こんなことにはならなかったのよ」
「あなたに言われたくはありませんよ」
 フレイはすまし顔で言う。「あそこでアクアを逃がさなければ、ここまで被害は及ばなかったのですから」
「それは、フレイが有無を言わさずアクアを攻撃するから……」
「あの……」
「なに?美奈ちゃん」
「結局、アクアは何者だったんですか?サラマンダーの格好をしてるかと思えば、自分は高位の精霊と言いますし、それにイフリート……あっ、フレイさんでしたね。そのフレイさんに追いかけられて……」
「そうよね。私もフレイから話を聞いても、まだ信じられないものね、断片的にしか話を知らない美奈ちゃん達には、なにが起こっていたのかすら分からないのも無理もないわ」
 千歳は何度もうなずく。「本当は、今回アクアに関わった全員にまとめて話したいんだけど、直人と翼はしばらく戻ってきそうにないし、絵美ちゃんは?」
「絵美さんは、まだ保険室で眠ってます」
「絵美ちゃんも駄目か。しょうがない。とりあえず美奈ちゃんに話すから、他の人にちゃんと話しといて」
「分かりました」
「アクアが高位精霊だということは、知ってたわよね?」
「はい。直接アクアから話を聞きました」
「じゃあ、アクアのややこしい状態も聞いているのね?」
「聞いてます」
「なら、話は早いわ。実はアクアは、水の高位精霊クラーケンの一族なの。そして、ここにいるフレイは火の高位精霊イフリートの一族。いわゆる精霊界のお偉いさんっていうことね」
「つまりアクアとフレイさんは、自然界に大きな影響をもたらす精霊ってことですよね。その二人がいがみ合っているなんて……」
「いがみ合ってなんかいないわよ」
「えっ?でも……」
「だって、いがみ合ってる精霊同士が結婚する訳がないでしょう」
「結婚って……ええっ!」
 美奈子が驚いた声を上げる。「け、結婚って……えっと……その……アクアとフレイさんとがですか?」
「そうよ。ねっフレイ」
「まあ、正確には違いますが、物質界の表現としてはそれが一番近いと思います」
「で、でも結婚なんて信じられません……」
「まあ、普通はそうでしょう。だいたい、精霊同士が結婚するなんて話。精霊であるフレイの口から聞かされなかったら、私だって信じられなかったわ」
「そうですよ」
「でも、事実よ。何と言っても精霊は嘘をつかない」
「……本当ですか?フレイさん」
「二度も言う気はありませんよ」
「でも、なんで結婚しているのに、アクアを殺そうとしたんですか?」
「殺した方が手っ取り早いのですよ」
 フレイは淡々と答えるが、美奈子はますます頭をこんがらがるだけである。
「うーん。ここは人間と精霊の性質の違いから来る感覚の違いね」
 そこに千歳がフォローを入れる。「美奈ちゃんは召喚の生徒じゃないから知らなかったと思うけど、精霊は物質界で殺しても実質的に死んだことにはならないのよ」
「どういう意味ですか?」
「召喚によって、物質化された精霊を殺しても、それは物質界での存在が消えるだけで、精霊本体はただ精霊界に帰るだけなのよ。簡単に言うと、フレイの殺すというのは、強制的に精霊を物質界から精霊界に引き戻すということなの」
「なるほど……それは分かりました。でも逆に、分からなくなったことも出てきました。だってアクアは、精霊界に帰りたがってたんですよ。だから今日の夜、魔方陣を使ってアクアを精霊界に帰そうと、絵美さんと話してたんですから」
「そこら辺は少し複雑な事情があってね。フレイ、話してもいい?」
「別に構いませんよ。なんなら私が話しましょうか?」
「いや、私に話させて。精霊と人間の考え方は少し違うから、美奈ちゃんが混乱してもいけないし」
「そうですか。では任せますよ」
「さっきも言った通り、フレイとアクアは結婚した訳なんだけど、実際アクアは水精霊であるから、フレイの存在する火精霊の領域にははいることができなかったの。もちろん逆もそう。つまり結婚と言っても、二人が会える場所は非干渉である精霊の領域のみだけ。会う機会なんてほとんど無かったの。
 ところがアクアは、フレイに会いたいが為にある方法を考えた。それが……」
「エレメンタルバリア……ですね?」
「よく分かったわね」
「アクアから聞きましたから」
「アクアからね……まあいいわ。とにかく自分の周りにサラマンダーをまとわりつかせることによって、アクアは火精霊の領域に踏み込むことに成功したの。もちろんそれは、精霊にとって重大な罪だったけれど、それによりアクアは、何度もフレイに会いに行ってたのよ」
「罪を侵して愛するものに会いに行く。ロマンのある話ですね」
「まあね。でも、ロマンのある話はここまでよ。しばらくして、アクアはフレイに会いに来る回数が減ってきたの」
「はあ……さすがに無断進入しているのがバレてきたんじゃないんですか?」
「フレイも最初、そう思ったらしいんだけどね。でも、そんなことは全然無かった。それどころか火精霊の領域に進入する回数は増えていたそうよ」
「それって、もしかして……」
「ズバリ!他に女ができたのよ」
「ちょっと待って下さい」
 突然、フレイが口を挟む。「それは少し、表現がおかしくありませんか?精霊には男や女と言う性別はないですよ」
「まあ、いいじゃないの。この方が分かりやすいんだから」
「でも、なんで私が女役になるんですか?」
「簡単なことよ。浮気はどちらがしてもされても、男がだらしないというイメージがあるからよ」
「それって、アクアが聞いたら気を悪くしますよ」
「いいのよ。気絶してる奴に気を掛ける必要はないわ」
「そんなものですか……」
「話を続けるわよ。とにかく、ここまで来れば話は早いわ。浮気がばれて逃げ腰になるアクア。怒りのあまりにヒステリーを起こすフレイ」
「私はヒステリーなど起こしてませんよ」
「いいかいいいから、とにかくこの騒動で、アクアの無断進入がバレてしまい、それが火精霊の王の耳に入る。火精霊達は罪人アクアを捕まえようと、山狩りを行なう」
「精霊界に山は……」
「いいから黙りなさい。しかし、必死の捜索も空しくアクアの姿を見つけることはできなかったの。
 それもその筈よね。だって、その時には物質界に、しかもサラマンダーという姿で召喚されちゃったんだから。しかも、外見はサラマンダーでも中身はクラーケン。ここの生徒でそんな高位精霊を制御できる訳もない。
 で、結局召喚は失敗して、サラマンダーの檻の中に放り込まれたって訳。
 さてアクアは、偶然にも火精霊の領域から逃げることができた訳なんだけど、境遇が大して変わった訳じゃない。なんせ、体中にまとわりついているサラマンダーが取れないんだから。サラマンダーをとるには精霊界に帰るしかない。だから魔法陣を使って帰ろうとしたんでしょうね。でも、その計画を行なう間際になって、偶然フレイに見つかってしまう。まあ、逃げて当然。もしかしたら、このまま火精霊の領域に連れ戻されるかも知れないんだから」
「私はそんなことをするつもりはありませんでしたよ」
 フレイは澄まし顔で言う。
「殺そうとはしたけどね。とまあ、こういうお話だったのよ。分かったかしら?」
「まあ、一応は……」
「とにかく、今回の騒ぎはこれでおしまい」
 そう言うと千歳は一息つく。「しゃべれるサラマンダーを失うのは悲しいけど、サラマンダーを逃がしていた犯人もいなくなる訳だし、よしとしましょう」
「では、私はアクアを連れて帰ります」
「そうね、もうフレイに監視してもらう必要もないし。魔法陣の所まで案内するわ。じゃあ、美奈ちゃん。直人達が帰ってきたら説明しておいてね」
「分かりました」
 美奈子はそう言うと小さくうなずいた。それを確認すると、千歳はフレイと一緒に、食堂を後にしたのである。
「さてと、直人さん達が帰ってくるまでに、少しはここをきれいにしておきますか」
 美奈子が腕捲りをして、掃除を始めようとすると、
「あれ?美奈ちゃん?」
 惚けた顔の絵美が入ってきた。
「あっ!目を覚ましたんですか!」
「うん、まあ……でも、なんでかな。ここに来てからの記憶が全く無いんだけど」
「やっぱり、覚えてないんですか」
「ねえ、美奈ちゃん」
「なんですか?」
「さっき、そこの入り口で千歳さんに会ったんだけど、突然大声で笑われちゃってね。理由を訊いても美奈ちゃんに話を聞けって言うし……もしかして私、物凄く変なことやらかしたんじゃないのかな?」
「ええっと……それはですね……」
 そう言って、美奈子は思わず噴き出してしまった。
「美奈ちゃんまで、笑うことないでしょう」
「いえ、その……すみません。そんなたいしたことじゃないんですよ。ただ……」
「ただ?」
「いえ、なんでもありません」
「なんか怪しいな……あっ、そうそう話は変わるんだけど……」
 絵美はポンと手を叩く。「さっき千歳さんに会った時なんだけど、変な人が縄でグルグル巻にされたサラマンダー持ってたんだ、あれってもしかしてアクアじゃない?」
「そうですよ」
「やっぱりね。そうだと思ったんだ。でも、なんであんな風にされてたのかしら?」
「聞きたいですか?」
「えっ?まあ、聞きたいけど」
「そうですか。それではお話しましょう」
 美奈子はにっこり微笑むと、今回の騒ぎを話し始めたのである。「実はですね……」

「ふぅー。終わった終わった」
 絵美は大きなため息をつく。「こんなに緊張したのは何年ぶりかしら」
「緊張なんかしてたの?」
 千歳は意外そうな顔で聞いてくる。「だいぶ落ち着いてたように見えてたけど」
「緊張してましたよ。緊張のあまり、一瞬気が遠くなることもあったんですから」
「緊張のあまりに?信じらんないな?そんなことって本当にあるの?」
「ありますよね先生?あっ……今は校長でしたね」
「先生で構いませんよ」
 校長はニッコリ答える。「そうですね。私が中学の教師をしていた時は、結構そういう人がいましたよ」
「ほら、先生もそう言ってますよ」
「そうそう、そう言えば絵美ちゃんもあの時倒れちゃったのよね。緊張のあまりに。確か生徒総会の時の……」
「わっ!先生!ストップ!人の過去を話すなんてプライバシーの侵害ですよ!」
 絵美は慌てて校長の話を止めた。ここは本校舎にある第一職員室。今年の入学式も無事終わり、絵美と千歳は休息とおやつを同時にとっていたのである。そこに校長が加わった形になった訳で……
「とにかく、赴任挨拶なんてもう二度としたくありません」
「もうする必要は無いって」
 千歳は軽く笑う。「もちろん、この学院をやめなければの話だけどね」
「どう?絵美ちゃん。この学院の感想は?」
「感想と言われても、まだ赴任して一週間しか経ってませんから、なんとも言えませんけど……少なくとも今は悪くはないですよ」
「悪くはなくても驚いたんじゃない?」
「えっ?ま、まあ少しは……でも、もう慣れましたから」
「そうよね。赴任早々、あんな騒ぎに巻き込まれるんだものね。あんな目に会ったら、どんなことがあっても驚かなくなるか」
「あれでだいぶ度胸がつきました。もちろんあの日は、あまりの恥ずかしさに寮を抜けようかと思いましたけど」
「斬る斬る斬るだっけ?」
「その話はもう……」
「なに恥ずかしがってるの?自分で振っておいて」
「それはそうですけど……」
「昔から絵美ちゃんは、墓穴を掘りやすいタイプなのよ。あの時だって……」
「だから先生!昔の話は……」
「とにかく今は、寮を抜けようなんて思ってない訳ね?」
「ええ、それはもう。とりあえず抜ける理由はありませんから」
「抜ける理由か……結構あるんじゃないのかな。例えば、あの双子が隣の部屋にいるというだけで充分理由になると思うけど」
「そうですか?。結構楽しいですよ。あの姉弟といると。妹と弟ができたみたいで」
「まあ、無邪気な所はかわいいけどね」
「それに目覚ましにもなるし」
「目覚まし?」
「毎朝五時になると、姉弟喧嘩を始めるんですよ。これがまたすごいのなんの……」
「うーん。見事に順応してるな」
 千歳が苦笑いをしていると、遠くの方から廊下を走る音が近づいてきた。
「失礼します」
 と言って、息を切らせながら直人がドアを開けた。「ここに千歳……じゃなかった。柳沢先生……あっ!いた」
「あっ!いたじゃないわよ。どうしたの?」
「また始めたんだよ。あの二人」
「また?今日すでに三回目よ。いったいなに考えてんのよ!」
「そんなの本人に訊いてくれよ」
「それで、今はどんな状況なの?」
「俺が見た時は、まだ睨み合ってただけだけど、いつ爆発するか分からないんだ。一応、翼と美奈子に押さえさせてるけどあんまり効果なさそうだし……」
「あの二人にも困ったものね。夫婦喧嘩なら自分の世界でやれって言ってるのに。分かった。今すぐ用意するから、直人君も翼君達のサポートをしていて」
「分かった。とにかくすぐ来てくれよ!あいつらが精霊力を開放したら、こんな学院一溜まりもないんだから」
 そう言うと直人は、再び廊下を駆け出したのだった。
「全く、とんでもないのが帰ってきたわね。あの双子だけでも頭が痛いってのに」
「しょうがないですよ。もう、精霊界に居られないって言うんですから」
「だったら物質界にも居られなくしたいくらいよ。フレイだけならまだしも、アクアまで本来の姿になって戻ってくるなんて、なおさら始末が悪いわ。直人じゃないけどあの二人が本気をだしたらこの学院どころかこの町一帯が荒野と化すんだからね。じゃあ、校長先生。ちょっと行ってきます」
「あっ私も行きます」
「絵美ちゃんも?なんで?」
「迷惑ですか?」
「迷惑って訳じゃないけど。ここにいた方が少しは安全だよ」
「安全を選ぶならこの学院をやめてますよ」
「えっ?」
「千歳さん。私はやめる理由はないんです」
「そ……そうなの?」
「そうなんです。でも……」
「でも?」
「実はやめない理由はあるんですよ。何故私があの騒ぎに巻き込まれてもなお、この学校にいるのか……分かりませんか?」
「えっ?えっと……」
「楽しいからですよ」
「楽しい?」
「この学院で仕事すること、寝ること食べること、そして何が起こるか分からない毎日が送れること。全てにおいて今、最高に楽しいからです」
「最高にねえ……」
「それでは先生。寮の方に行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
 校長は微笑みを崩さずに言った。
「さあ千歳さん、早くしないと喧嘩が始まってしまいますよ。急がないと……」
 そう言うと絵美は職員室を後に走り出す。慌てて千歳も絵美の後を追った。
「絵美ちゃん!ちょっと待ってよ」
 千歳の悲鳴が遠ざかると、職員室は静寂に包まれた。
「楽しい毎日を送るためにここにいる。その言葉はこの学院にとって、最高の誉め言葉ですよ絵美ちゃん」
 校長がそう言った瞬間、まるでそれに答えるかのように、校舎の鐘が快い音を鳴らしたのである。

(精霊使いと仲良く暮らすには……?・終わり)










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