吸血鬼恋愛談義


 夜空に一つの影があった。
 それは鳥でもなければ、虫でもない。そんな小さな物ではなかった。
 外見は人の形をしている。が、それはもちろん人ではない。人がマントを広げるだけで空を飛ぶなど考えられないことなのだ。
 バンパイア……人は彼をそう呼んだ。そして、恐れていた。吸血鬼である彼を恐れる理由は言うまでもない。今夜も、その理由の為に、彼は夜空を飛来しているのだから……。
 彼は獲物を探す鷹のように、気持ち良さそうに空を舞っている。やがて、彼は一軒の家の上を旋回し始めた。
 目指す獲物は彼の目には移らない所にいた。だが、彼は獲物がそこにいるということに気づいていた。
 彼にとって、視覚の障害など全く関係ない。美味なる獲物がそこにいるというだけで。彼の秘めたる感覚が、彼に獲物の場所を知らせているのだ。
 彼は今夜の食事場所をそこに決めたらしい。その家の二階の窓に高度を下げて行った。
 窓には、いつものように、ニンニクや十字架といった物が張り目ぐらされていた。人は、それらが彼の嫌う物であり、彼を進入させないための物だと信じている。だが、彼はそれらを恐怖と思ったことは無かった。異様な目を向けたものの、彼はそれらをほとんど無視し、窓に手を伸ばす。
 もちろん、窓にも鍵は掛かっている。しかし、やはりそれも彼を止める物にはならなかった。彼が窓に触れただけで、鍵は音も立てずに開く。彼は何の障害もなく、獲物のいる場所へと進入していったのである。
 中では一人の女性がドアの前で震えていた。彼の進入に気づいていたのだ。
 なぜ、彼女は逃げなかったのか?そうではない、逃げられなかったのだ。彼が彼女を獲物と見てしまった瞬間、全ての出入り口は固く閉ざされてしまったのだ。彼女に震える以外に何ができたというのだろうか。
 彼女の前に、一匹のアンデットが立つ。アンデット……ゾンビやスケルトンなどのモンスターを総称する言葉であり、彼もその内の一つに入っている。しかし、これほど彼に似合わない言葉は無いのでは……それほどに彼の姿は美しく、全ての女性を魅了させる力を持っているのであった。
 彼の姿を見た瞬間、彼女の震えは止まる。彼の姿に見とれてしまった……それも一つの要因だったのかもしれない。だが、大きな要因は、彼の催眠術によるものであった。
 彼女はうつろな目をしながら立ち上がる。彼は彼女の態度の変化を、さも当然といった表情で見守っていた。やがて彼女は彼の側まで歩いて来る。
 彼は軽く笑みを零すと、バッとマントを広げ、彼女をマントで包み込む。そして、彼女の首筋へ自分の牙を食い込ませたのである。

「美味であった」
 彼は、彼女に食事の礼を言う。しかし、彼女はその礼に答えることは無かった。彼女の命の炎は、すでに消えているのだ。彼が腕の力を抜くと、彼女はその場で崩れ落ちた。
 彼はマントを翻し、入ってきた窓を見る。ここが、彼の入口であり、出口なのだ。彼は、彼女の死体を一瞥し、軽く笑みを零す。全ての儀式を終えた彼は、満足げに外へと飛びだしたのである。しかし……。
「おわっととと……」
 彼は慌てた声を上げる。どうやら、飛び出す時に、彼の足が窓の縁に引っかかったようだ。バランスを崩した彼は、必死に高度を取ろうとする。だが、もがけばもがくほど、彼のバランスは崩れて行った。
 しかし、なんとか高度を保つことはできた。低空ながらも彼は何とか飛び続ける。だが、不運は続くもの……さらに、彼の行く手を塞ぐものが現れる。大きな樫木であった。
「どっ……どけ!」
 彼が木に怒鳴りつける。だからといって、木が避けたという話しは聞いたことが無い。
 その時も例外なく、木は居座り続けた。結果、彼は樫木と正面衝突することになったのである。

「う……うーん」
 彼は小さく呻くと、薄く目を開けた。
 続いて彼は、ここが自分の住んでいる城ではないことに気づく。少なくとも、今まで城が光に包まれたことなどなかったのだから。
 もちろん、この光は火が放った物であった。もし、これが日の光であったのならば、すでに彼の体は灰になっていた筈である。
「ここは……」
 彼はそう呟くと、あまり上質でないベットから身を起こした。そして、ざっと辺りを見渡す。
 そこは小さな部屋であった。いや、部屋と呼んでいいのだろうか?彼が見た所、ここに存在しているのはドアが一枚、窓が一枚、ベットが一つ、少女が一人……。
「少女?」
 彼は思わず声を上げる。その声に少女はハッとした。そして、真っ直ぐ彼を見る。
「目を……覚まされましたか?」
 少女は申し訳なさそうな顔で訊いてきた。彼は小さくうなずいて見せる。しかし、少女の表情は変化しない。
 二人の間に沈黙が続く。まるで、このまま永遠の時が続くような感覚が彼を襲った。
「目を覚ました」
 ついに耐え切れなくなった彼は、呟くように言った。しかし、彼女にはその言葉だけで十分であった。パッと顔を明るくさせる。
「そうでしたか!良かった……見つけた時は死んでいるのかと思ったんですよ」
「死んでいたか」
 彼は苦笑いする。アンデットである彼に、体温などは存在していなかった。彼が気絶している状態は、人間が死んでいるのと似たようなものである。それなのに、まだ彼が生きていると思っていたとは……。
「ここは?」
「私の家です。小さいながらも」
「ここに私を運んだのは?」
「私です」
「君一人でか?」
「ええ、何度か転びそうになりましたが。思ったより軽いのですね」
「確かに、私は人間に比べて多少軽いが……それにしてもすごい。ところで君以外の人は?」
「いませんよ。私一人です」
「一人って……御両親は?」
「ちょっと訳ありで……いません」
「そうか……」
「貴方は?」
 少女は興味深げに訊いてくる。
「私?」
「ええ、私にも何か質問させて下さい」
「そうだな……なにが訊きたい?」
「そうですね。貴方の素性も知りたいですが……それよりもなぜあそこで気絶していたか知りたいですね」
「あまり話したくはないのだが……」
 彼は照れくさそうに頭を掻く。「聞きたいか?」
「無理に話さなくても結構ですよ。誰にでも話したくないことはあるのですから」
 彼女はニッコリ微笑んだ。そして、ポンッと手を叩く。「そうだ!スープを温めて置いたのを忘れてました。待ってて下さい、すぐよそってきますから」
 彼女はそう言うと、立ち上がり、壁に手をつきながらドアに向かった。
「いや、別に構わないでくれ、助けてもらってなんだが、すぐ出て行くつもりだ」
「そんなこと言わないで、一口だけでも……キャッ!」
 彼女は悲鳴を上げて倒れた。
「大丈夫か?」
 彼は慌てて彼女の側による。
「すみません。ノブの位置を誤って……」
「ノブ……ドアノブのことか?」
 彼が訊くと、彼女は小さく頷いた。
 彼はドアを見る。ドアには特大のドアノブが設置されていた。これほど大きなドアノブを、見誤るはずなど無い。そして、こんなドアノブを使用する人間というのは……。
「もしや……目が見えないのか?」
 彼の問いに彼女は答えなかった。しかし、彼女の悲しい表情は、肯定しているのと同じであった。
「そうか……それなら、なおさら長居する訳にはいかないな」
「そんなこと言わないで、ゆっくりしていって下さい」
「しかし……」
「久しぶりのお客様なんです。おもてなしさせて下さい。それに夜は危険すぎます。せめて夜が明けるまで」
「いや、私は夜明けまでに帰らないと……」
「それでは一時間だけでも、まだ夜明けまで時間がありますから……」
「だからその……」
 彼は返答に困る。なにせ、彼がそんな目に合ったことは、今まで無かったのだから。

「結局、日が昇る寸前まで、話し込んでしまった」
「なるほど。それで昨日は、お帰りが遅かったのですね」
 腰の曲がった醜い顔の小男が、笑いながらワインを注ぐ。せむし男と呼ばれているこの男、彼が唯一牙をかけた男であり、彼の忠実な家来であった。
「それで、どうだったのですか?」
「何のことだ?」
「その盲目の女のことです」
「つまらん女だ。とりわけ美人でもない」
「しかし、獲物としては……」
「獲物のことは訊くな!貴様には関係の無いことだ!」
 彼は小男に一括した。そして、小男の持ってきたグラスをひったくる。「お前はこの城を守っていればいいんだ!私の行動にとやかく口を挟む必要はない!」
 彼はそう言うと、ワインを一気に飲み干す。食事の前に、口の中を滑らかにさせる為のワインである。彼もいつもはこんな飲み方などしなかった。
「外へ出るぞ」
 彼が立ち上がると、いつものように小男がサッとマントをかけたのである。

 少女はベットに腰掛け、本を読んでいた。もちろん、目で読んでいる訳ではない。その本は、一見白紙であり、よく見ると小さな点が無数に並んでいるのである。
 少女はその点に指を当て、少しずつ横に動かしていく。特殊な点は少女にとって文字であり、それによって少女は本の面白さを理解することができたのである。
 少女は一心に本を読んでいた。しかし突然、顔をハッとさせる。
「どなた?」
 少女は小さく呟く。しかし、返事はない。少女はしばらくそのままの姿勢で待っていたが、やがて立ち上がると、窓に向かって歩き出した。
 彼女は無造作に窓の前に立つ。そのすぐ脇には吸血鬼の姿があった。しかし、彼の顔はいつもの冷静な顔ではなかった。驚きの表情で少女を見る。しかし、少女は彼には全く気づかずに窓を閉めた。
「どうして気づいたんだ」
「えっ?」
 彼の呟きに、少女は驚きの声を上げた。今まで、彼がそこにいたことに気づかなかったのである。
「だれか……いるのですか?」
「私だ」
「その声は……昨日の……」
 少女の表情がパッと明るくなる。「いつからそこに?」
「とぼけないでくれ。君は私の進入に気づいたではないか」
「そんな、私はたった今……もしかして、さっき私が呟いた時?」
「そうだ。あの時、私は完全に気配を消したつもりだ。もちろん、音など一つも立ててはいない。それなのになぜ?」
「ああ、そう言うことですか」
 少女は無邪気に笑った。「風が入ってきたのですよ」
「風?」
「ええ、先程風の流れを感じたんです。窓が開いたときの風の流れでしたから、もしかして、誰かが窓を開けたのかと思ったんです。ほら、ここは一階ですし……」
「なるほど。風とは気がつかなかった。自分だけが、中に進入した訳ではなかったのか」
「そういうことです。でも、なぜ窓から?言って下さればドアを開けましたのに」
「それは……」
 彼はまたもや返答に困った。まさか、少女の血を吸いに来たとは言えない。
 それに、すでに彼は少女の血を吸うつもりは無くなっていた。もちろん、喉の渇きは続いている。なぜだろう、彼は彼女を死体という物にはしたくなかったのだ。
「話を……話をしに来たのだ」
「話……ですか」
 少女は不思議そうな顔をする。しかし、すぐに顔を明るくさせた。「そうですね。私も本を読むのに飽きた所です。何の話をしましょうか?」
「別に何でもいいのだが……そうだ!その本の話をしてくれないか?」
「この本ですか?でも、これはみんながよく知っているお話ですよ」
「だからといって、私が知っているとは限らないだろう。というより、私はあまり本を読んだことがないのだ。ぜひ聞かせてくれ」
「そうですか?それでは少し恥ずかしいですが……」
 少女は照れながらも、本の内容を話し始めたのだった。

「それは恋ですな」
 小男がキッパリ言い放つ。「恋に間違いありません。私の体験からすると……」
「わかった!もういい」
 彼は小男を黙らせた。誰が、こんな醜い顔の恋話など聞きたいと思うだろう。しかし、小男の意見は彼の心の中に大いに影響した。
「恋か……」
 そう呟きながら、彼は少女の顔を思い浮かべた。美人と思ったことはない。少女より美形の顔など、今まで何人も見てきている。そして、それらの女性は全て、自分の獲物となっていったのだ。
 そう、彼にとって少女は獲物の対象にはならなかったのは確かなのだ。しかし、彼の心の中に少女は居続けている。
 こんなことは初めてだった。血を吸いたいとは思わない。しかし、少女を側に置きたい。少女とずっと話していたい。そんな衝動が彼の心に働きかけているのだ。
「これが恋というやつなのか」
 彼はもう一度呟いた。それを聞いた小男はニヤッと笑う。
「どうです?我々の仲間に迎えては」
「仲間?」
 彼はまたもや考え込んだ。人間を彼の仲間に、つまり吸血鬼にする方法がある。別段、難しいことではない。彼が人間に噛みつけばいいのである。
 もちろん、そこで血を吸ってしまえば、その人間は死んでしまう。しかし、血を吸わなければ……。
 一つの例がここにいた。小男のことである。彼が噛みつくと、男は小男のような醜い吸血鬼になる。女は外見の変化はないが、やはり吸血鬼になる。そして、どちらも彼が滅びるまで、永遠に忠実な家来となるのであった。
「……仲間か。それはいい手かもしれんな」
 彼は、小さく呟いたのであった。

「私だ」
 彼は声を出す。彼が人の家の前で、こんなことを言ったのは、おそらくこれが初めてのことであっただろう。
 しかし、窓の前で立っていたのは、やはり彼のプライドが許さなかったのだろう。
 彼にとって、家の出入り口は窓なのだ。
「どうぞ」
 少女は窓を開くと、微笑みながら彼を出迎える。すでに常連となった彼が、どこから入ってこようと、少女にとって大した問題ではなかった。そう、彼が毎日夜に現れ、夜に帰ってしまうということも含めてである。
「そろそろ来る頃だと思いまして、お茶を入れておきました。どうぞ飲んで下さい」
「それはありがたい」
 彼は弾んだ声を上げた。実際、彼の食事というものは女性の血であって、お茶が彼の喉を潤すことはない。しかし少女が、自分に気を配ってくれたということが、彼にとって嬉しいことなのだ。
 ちなみに彼は、すでに獲物の血を吸ってきている。少女の家に行く前にすることにしたのだ。これなら、日が昇る寸前まで、この家にいることができるためである。
「昨日はどこまで話しましたかしら?」
「確か、結婚を反対された女性が、仮死状態になれる薬を貰う所から……」
「ああ、そうでしたね。もうすぐ終わりそうでしたのに、突然帰られるから……」
「いや、あれは日が昇るのを忘れる程、熱心に聞いたためで……」
「そうですか」
 少女は微笑むだけであった。誰にも言いたくないことがある。それをあからさまに追求してはいけない。話したくなれば自分から話すだろう。それまではじっと待つのである。
 口で言うほど簡単なことではない。しかし少女は、それをすることができた。それはつまり、聞いてほしくないことや、言ってほしくないことの気持ちが痛いほど分かっていたからなのだろう。
 彼は、向かいに座って、楽しそうに話している少女を見た。彼は相変わらず少女を美人だと思ったことはなかった。もちろん、血を吸いたいなどと、すでに心の片隅にも残っていない。
 彼女を自分の仲間にする。
 あの時、確かに良い考えだと思った。しかし、あれから十日あまり、彼は悩み続けていたのだ。
 彼女は人間だ。歳もとれば、少しは色気も出てくるだろう。そして僅か数十年で死んでしまうだろう。彼の時間感覚からすれば、人間の寿命は短すぎるのだ。だからこそ、今まで人間の血を吸い、殺すことも平気でしてきていた。
 彼にとって、そして少女にとっても、自分の仲間にすることが、一番良いという結論は出ている。何を悩む必要があるのだろうか。
 しかし、現に彼はここ数日悩み続けている。何か……何かを失ってしまいそうな感覚が、彼の頭に過っているのだ。
(いったい何を失うと言うんだ!)
 彼は自分の心に怒鳴りつける。しかし、彼の心からの返答は無かった。結局、答えの出ない彼は、静かに少女の話を聞くことしかできなかったのである。
「……仮死状態から彼女は目覚めると、そこには毒薬を飲んで死んでいる彼の姿を見つけました。そして、この計画が失敗に終わったこと、そして、自分のもっとも愛する者がいなくなったことを知ったのです。愛する者が死に、もはや生き甲斐を無くした彼女は半狂乱になりました。そして、側にあった短剣を自分の胸に刺し……」
「死んだのか?」
 彼が訊くと、少女は小さく頷いた。
「なぜ……なぜ彼女は死んだのだ?」
「それは……愛する者を失ったからです」
「馬鹿な……いくら愛する者を失ったからと言って、なぜ自分も死んでしまう?自分が滅んだ所で何になるのだ?」
「確かに、何にもならないと思います」
 少女は頷いた。「しかし、彼女が生きていて何になると聞かれても、また同じ答えになると思いますよ」
「同じ答えに?そんなことはない。少なくとも滅ばなければ何かはできる筈だ」
「例えば?」
「例えば、自分をこんな目に合わせた連中に復讐することもできる。そうでなくても、また違う人を好きになって、結婚をし、幸せな生活を送れることだってできる」
「死んでしまえば何もできない……私もそう思います。だからといって、生きていれば何でもできると言うのは、間違っていると思いますよ」
「私は何でもできるとは……」
「そうですね。それでは少し言い方を変えて、彼女にとって、生きていても、彼を愛する表現方法が無かったのだと思います」
「表現方法……」
「そうです。例えば、復讐した所で、彼が生き返る訳ではない。つまり復讐によって、その場の気は晴れたとしても、後には何も残りません。他の人を好きになる……これは問題外です。すでに、彼を愛する表現をしようとしてないのですから。もちろん、そうすることが悪いとは思いません。ただ彼女は、そうすることができる自分には、なりたくなかったのだと思います。そして、そうなるかも知れない自分の未来を恐れてしまった。だからこそ今の心を大切に、彼を一途に思っていた心を、一片でも無くしたくないからこそ、彼女は死んだのかも知れませんね」
「愛し続ける心か……」
「でも、彼にとって、もし彼女が生きていたことが分かっていたらどう思ったでしょうね。やはり、生きていてほしいと思っていたのでしょうか?」
「それは難しい問題だな。自分が滅んでいるのに愛するものは存在している。人によって考えは分かれるだろうな」
「私は……恥ずかしい話ですが、やはり後を追って死んで貰いたいと思います」
「別に恥ずかしいことじゃないさ。滅んでしまって、愛する者が他の者に心移りすることほど歯がゆいものは無いだろう。私も共感するよ」
「ありがとうございます。でも、おもしろい表現しますね」
「えっ?」
「滅ぶとか、存在するとか。まるで死は今の定義には当てはまらないみたい」
「いや……その……た、大した意味はないんだ。あまり気にしないでくれ」
「そうですね」
 少女はそう言い返しただけであった。
 今夜もこの光景が朝まで続く……そう思われた時、それが起こった。
 突然、ガラスが割れる。そして、一本の矢が少女の胸に刺さったのである。矢の勢いが、少女を横倒しにした。
 突然のことに彼は呆然とし、横たわった少女を見る。少女の胸から赤い液体が流れ出てきた。
「血……」
 彼は呟く。彼が毎晩、食事といって吸っていた物だ。しかし、今の彼にとって、それが同じ物だとは到底思えなかった。
 しばらくして、外から声が聞こえてきた。
「周りはすでに包囲している。吸血鬼とその仲間は速やかに外へ出てこい。今度は威嚇では済まないぞ!」
「威嚇……だと?」
 彼は少女から目をそらさずに呟いた。少女はたった一本の威嚇射撃で倒されてしまったのだ。そして、もうすぐ彼女の命は尽きようとしていた。
「人間ども……許さん!」
 彼は、勢いのまま、外へ出ようとした。しかし、窓の前で突然彼の動きは止まる。
(復讐した所で何になる……)
 彼はもう一度少女を見る。すでに少女の意識はない。しかし、その言葉を思い出した彼は、もはやうって出る気は無くなっていた。もちろん、少女を射った人間に対しての怒りは消えてはいない。
 彼は少女の所に戻る。そして、彼女を抱きかかえると、大きなドアから出て行く。外は男達でいっぱいだった。全ての目が彼を睨み付けている。
「こいつらも、今の私と同じ気持ちだったというのか……人間風情が生意気なことだ」
 彼はそう呟くと、音もなく飛び上がった。
 大きな歓声が上がる。そして、男達は散り散りになって逃げ出した。しかし、彼は人を襲う気など、まるでなかった。彼は帰るために飛んだのだ。自分の城に帰るために……。

「まだ死んだばかりですな」
 小男が呟く。彼は何も言わなかった。そんなことは知っていたのだから……。
「今ならまだ間に合いますよ。仲間にすれば、彼女は意識を取り戻すでしょう。そして、永遠の時を……」
「言うな!」
 彼は小男を黙らせた。そんなこと、彼は重々理解している。もともと、そうしようとしていたのだ。そして、少女の意識を取り戻す唯一の方法なのだ。彼は城に帰るまでそうしようと思っていた。
 だが、今はそれができなかった。
 彼女が死んで、失った物が何なのか、痛いほど理解してしまったせいだ。
「彼女の心……本当の心」
 彼は呟く。少女を噛めば、少女の意識は戻る。しかし、彼に対する忠誠心がインプットされた時点で、少女の心は、彼の欲した少女の心では無くなるのだ。言われなくても、お茶を入れてあげようという暖かい心が……。
「私は彼女を仲間にしない」
「そうですか」
 小男は反論しようとしなかった。別に理由はない。忠誠心で凝り固まった小男の心に、反論するという行動が存在していなかっただけのことだ。
「愛する者のいない世界、そんな世界で生きていて何になる……その言葉が今、痛いほど分かった気がする。そして、今の心を一片でも無くしたくないということも……」
「それでは本当にいいのですね?」
「構わん。やってくれ」
 もしかしたら、今のが最初で最後の小男の反論だったのかも知れない。しかし、彼はそんなこと気にも止めなかった。
「君は……今、私が滅ぼうとしているのを、どう思っているのだろう。嬉しいと思ってくれる範囲に私はいるのだろうか?そう思ってくれることを、私は願っているよ」

 その夜、山奥にあった城が燃えた。しかし、その城の存在すら知らなかった町の人は、ただ、空が赤くなっているとしか思わなかったという。
 そして、吸血鬼の脅威が消え、人々が安心して夜の町を歩き出す頃には、彼や少女。そして、それまでの出来事すら、人々の間から忘れ去られようとしていたのである。
 しかし、少女の家が、割れたまま放置されている窓が、その時のことが本当にあったということを物語っている。
 もしも、この町に立ち寄る予定のある人は、それまではこの話を覚えておいて欲しい。
 そして、少女の家で供養の一つもしてくれれば幸いである。

(吸血鬼恋愛談義・終わり)










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